ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.5.12


. 春と修羅・初版本

35杉の列には山烏がいつぱいに潜(ひそ)み
36べガススのあたりに立つてゐた
37いま雲は一せいに散兵をしき
38極めて堅實にすすんで行く

この日午後7時の星図によると、真東からペガサス座の四角形が昇ったところです。「杉の列」があるのは、そのあたり、つまり「松倉山」のある側になります。

ちぎれ雲が空全体に散らばって、ゆっくりと動いている光景です。

「山烏がいつぱいに潜み」は、杉の陰に隠れて突撃のチャンスをうかがっている伏兵を思わせますし、雲のようすは、「一せいに散兵をしき/極めて堅實にすすんで行く」と、戦闘に向かう軍勢のように描かれています。

「ペガサス」(ペーガソス)は、ペルセウスに退治されたメドーゥサの首から流れた血から生まれた・翼のある馬です。つまり“天馬”なのですが、宮沢賢治と“天馬”の関係で重要なのは、父・政次郎の↓次のような回想談です:

『あれは、若いときから、手のつけられないような自由奔放で、早熟なところがあり、いつ、どんな風に、天空へ飛び去ってしまうか、はかりしることができないようなものでした。私は、この天馬を、地上(つち)につなぎとめておくために、生まれて来たようなもので、地面に打ちこんだ棒と、綱との役目をしなければならないと思い、ひたすらそれを実行してきたのであります。』


☆(注) 森荘已池『宮澤賢治の肖像』,p.256.

つまり、この“軍勢”もまた、作者の深層意識の中にあって、浮上する機会をうかがっている意識なのです。

さきほど全天に広がりかけた「虹の交錯や顫ひと/苹果の未熟なハロウ」を打ち消すようにして進軍する「峻儼」な“軍勢”──これもまた、模索にみちたこの時期の賢治の“精神の振り子”の振れなのだと思います。

. 春と修羅・初版本

39おゝ私のうしろの松倉山には
40用意された一萬の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり
41川尻断層のときから息を殺してまつてゐて
42私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる

こんどは、“火薬庫”です。
「用意された」と言っているように、「山烏」とちぎれ雲の“軍勢”が周到に準備した弾薬が、「松倉山」の地下で、点火を待っているのです。

「川尻断層」はよく分かりませんが、1896年の“陸羽大地震”の関係ではないかと思います。

“陸羽大地震(真昼大地震)”は、賢治が出生(1896年8月27日)してまもなくの8月31日、岩手県・秋田県を襲った震災です。
花巻の西南にある奥羽山脈・真昼岳付近が震源地(震度6〜7)で、岩手県側は、西和賀郡、稗貫郡に被害多く、家屋倒壊多数と云われます。その影響で起きた“三陸津波”も、海岸部に甚大な被害をもたらしました。

岩手県和賀郡湯田村(現在の北上線「ほっと湯田」駅付近)では、この地震で長さ4qの“川舟断層”ができました。「川尻」は、同村の役場所在地です。

ここで「川尻断層」と言っているのは、おそらく、“陸羽大地震”でできた“川舟断層”のことでしょう。

「硅化流紋凝灰岩」は、流紋岩質(珪酸[石英]に富むマグマ)の火山灰が堆積してできた凝灰岩が、酸性の熱水(温泉)などの作用を受けて、溶脱・再結晶して硅化(石英化)した・白っぽい硬い岩石です:⇒画像ファイル・硅化した流紋岩質凝灰岩

「松倉山」については、「風景とオルゴール」では「石英安山岩」と書いてあったのとどういう関係になるのか不明ですが、松倉山を実踏された奥田博氏によれば、この山は「どう見ても安山岩だ。」(奥田博『宮沢賢治の山旅』,p.124)

もっとも、「硅化流紋凝灰岩」は、ぼろぼろと崩れやすく、落石の危険性がある岩石ですから、《心象》として、そのイメージを附加しているのかもしれません。

なお、賢治の歩いた鉛街道から見ると、「松倉山」の斜面には、崩壊したガレ場が見えます。崖崩れなのか、奥田氏の言う石切り場の跡なのか、道路から見ただけでは分かりませんが、賢治の頃からあったとすれば、この詩の描く風景にふさわしい場所です:画像ファイル・松倉山(渡橋〜志戸平間)
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