ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.5.10


ヨーロッパでは第1次大戦の最中だった1917年5月、ビルケランド教授は、突然東京に現れて、日本の学者らが仰天するうち、6月15日の朝、宿泊先の上野精養軒ホテルで死体となって発見されるという“怪事件”がありました。

結局死因は、本人が誤って睡眠薬の量を多く飲みすぎたためということに落ち着いたようです。

1917年6月といえば、宮沢賢治は盛岡高等農林学校の最終学年で、地質調査などの学業でも、同人誌《アザリア》(1917年7月1日創刊)を中心とする文芸活動でも、多忙だった時期です。

賢治の所属していた“農学科第二部”は、肥料・土壌など農芸化学を中心とする学科でしたから、“空中窒素固定法”の発明者ビルケランドの名は、学生たちによく知られていたはずです。
そのビルケランドが、突然日本に出現して不可解な死を遂げたという‘事件'は、話題にならないはずがなく、賢治の記憶にも残ったと思われるのです☆

☆(注) 当時の新聞報道は調査中ですが、学者の間の情報として耳にした可能性もあります。

ところで、この“ビルケランド客死事件”については、東京帝大教授の寺田寅彦が、のちに(1935年:宮沢賢治の死後)随筆に書いていますので、事件の詳しい経緯は、それを読むと分かります:寺田寅彦『B教授の死』

内容を要約しますと:

 N国K大学の高名な物理学者B教授が、
〔第一次〕世界大戦も終結間近い年の5月初め頃、突然R大学〔東京帝大・理科大学、現在の東大理学部〕を訪れて著者らを驚かせた。

 東京に滞在を始めたB教授は、不眠を訴え、見るからに憔悴した様子であった。そこで、著者は、閑静な上野公園内にあるS軒附属のホテルを紹介したところ、B教授はそこに引き移り、その後はしばしばR大学の著者のところへも来るようになった。

 ある日、「ゆっくり話したいことがあるから来てくれ」と言われてS軒のホテルへ行ってみると、B教授はふだんとは違って、英語ではなくフランス語で話したいと言う。盗聴されているかもしれないと言うのだ。B教授が、フランス語で一句一句区切るようにして話した内容は:

 「自分はある軍事上の発明を某国へ売り込もうとしたところ、それ以来、スパイらしい者が身辺に付きまとうようになった。」B教授は、「スパイの監視の影を振り落とそうとして世界中をさまよい、命を狙われながら日本まで逃れてきたが、ここでもいつまた監視が始まらないとも分からない」、と言うのである。

 しかも、その“逃避行”の間のできごととしてB教授が語った体験は、アラビアンナイトのように奇怪だった。

 B教授は、そのままがっくりと瞑目してしまったので、著者は辞去した。その翌日、ホテルから異常を知らせて来たので、B教授の部屋へ行ってみると、教授はすでに息絶えており、枕元には、大量の睡眠薬を服用した跡があった。

寺田寅彦は、ノルウェイの大学にB教授を訪ねた時のことも書いており、真空放電装置“テレラ”でオーロラ再現実験を見せてくれたが、教授はオカルトめいた黒装束をまとって現れるなど、異様なふんいきだった、と述べています。

そして、この事件に遭遇して以来、毎年つゆどきになると「B教授のことを毎年一度ぐらいはきっと思い出す。」として、20年近くあとに随筆にしたためて発表しているのです。

B教授の死亡のしかたが奇怪であり、その直前の“体験談”も奇怪だったので、ノルウェイでの実験デモンストレーションの記憶までが歪められている可能性はあると思います。

同じことが、宮沢賢治についても言えないでしょうか?‥賢治と寺田寅彦が、期せずして「B氏」「B教授」というイニシャルによる匿名を使っているのは、“奇怪な事件”という見方が、無意識に反映していると思うのです。

しかし、単に“奇怪”だというだけでなく、

 “宇宙空間は、高速の電子やイオンで満ちている”

というビルケランドの予測(1913年)自体が、当時としては神秘的に受け取られたのではないでしょうか。

いわば科学の‘日常化’‘常識化’‘迷信と神秘の除去’に努めた寺田寅彦とは異なって、
賢治の場合には、むしろその神秘なイメージにこだわっているように思われます。
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