ゆらぐ蜉蝣文字
□第8章 風景とオルゴール
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8.5.6
. 春と修羅・初版本
28月の彎曲の内側から
29白いあやしい氣体が噴かれ
30そのために却つて一きれの雲がとかされて
31 (杉の列はみんな黒真珠の保護色)
さきほど、月面は「でこぼこの噴火口からできてゐる」と言っていたので、そのつながりから、月面は「白いあやしい氣体」を噴いていることになります。
クレーターの成因という“科学的”な思考が加わったために、いま、「月」は、光って見えている尖った弧形だけの存在ではなく、暗い「彎曲の内側」にも存在する球形の天体としてイメージされています。
その“見えない”部分の「噴火口」が「白いあやしい氣体」を噴出しているのですが、この「気体」自体が、現実に“見える”ものなのか(つまり、写真に撮つるのか)、それとも《心象》として“見えている”のか、作者自身にもはっきりしないのだと思います☆
☆(注) こうした部分に、「序詩」に結実することになる“相対的世界観”が胚胎していることに注意してほしいと思います。フッサールの用語で言えば“現象学的還元”です。《心象》としての“見え”と、客観的現実の“見え”は、等位です。ここは、科学「の位置を全く変換しようと」する「企画」ですが、「歴史や宗教」についても同様です(書簡[200]森宛,参照)。
ともかく、「虚空」の雲を溶かしてしまうような熱い、あるいは劇薬性のガスが立ち昇っているのです。
飛んでゆく「雲は月のおもてを研いで」磨き、「半月の表面」を「きれいに吹きはら」っている(「風景とオルゴール」44行目)のですが、その“反作用”も起きていて、「でこぼこ」の月面は気体を吐き出して、「雲」を溶かしているのです。
それが、「却つて」の意味です。
31 (杉の列はみんな黒真珠の保護色)
字下げカッコ内は、さきほどの「山もはやしも‥峻儼だ」のつづきの伏線です。
「杉の列」は、黒光りする「保護色」をまとって、いかめしくそそり立つ形の輪郭を、宵闇の影の中に溶けこませて、じっとひそんでいます。
. 春と修羅・初版本
32そらそら、B氏のやつたあの虹の交錯や顫ひと
33苹果[りんご]の未熟なハロウとが
34あやしく天を覆ひだす
「ハロウ」(halo)は、英和辞典によると:
halo /héɪloʊ|‐ləʊ/
@(a)【美術】(聖像の頭や全身を囲む)後光,光輪,光背.
(b) (人物・ものを取り巻く)光輝,栄光.
A【気象】(太陽・月の)暈(かさ),暈輪.
とあります。キリスト、天使、仏像などの頭や身体の後ろにある後光は、おなじみですねw:画像ファイル:ハロー
あるいは、月の暈のことを言っているのでしょうか?‥
しかし、「天を覆ひだす」と言っていますから、この「ハロウ」は、月の周りにだけあるのではなくて、全天に広がっています。「苹果の未熟な」は、未熟な青いリンゴの匂いの「ハロウ」という意味でしょう。
そうすると、「風景とオルゴール」の:
01爽やかなくだもののにほひに充ち
02つめたくされた銀製の薄明穹を
や、「風の偏倚」の最初のほうの:
04(虚空は古めかしい月汞にみち)
と、ほぼ同じことになります。
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