ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
88ページ/250ページ


7.1.87


賢治は、自分がトシの追憶から振り切れないことを、『春と修羅』の各作品で、しきりと気に病んでいるのですが、ギトンが思うに、それはむしろ正常な反応ではなかったかと思います。他の家族も同様だったという点で、すくなくとも、「心象のはいいろはがねから‥」などの“幻覚”めいた“心象”と比べたら、ずっと特異性が少ないと思うのです。

ところが、賢治は、上の2つのエピソードを、草稿段階で削除してしまい、《初版本》テキストには採用しませんでした。

それはなぜかと言えば、‥仏教の教義の枠組みに入れることができない現象だからではないでしょうか?

いずれも、《中有》の期間(7日〜最大で49日)は終っていますから、『倶舎論』の枠組みでは、トシはすでに《転生》し終えているはずです。そして、人間や動物に《転生》したとすれば、乳幼児か若鳥です☆

☆(注) その点で、作品「白い鳥」に現れる「大きな白い鳥」──成鳥のように見える──も、トシの転生にしては変かもしれません。それをトシの生まれ変りだとするのは、法隆寺駅の「わらす」や、雪の日の「黒いマントの女の人」の場合と同様に、‘ありえないこと’、仏教に反することであるはずです。それゆえに、作品「白い鳥」での作者の気持は、「死んだわたくしのいもうとだ〔…〕(それは一応まちがひだけれども/まつたくまちがひとは言はれない)」などと動揺しているのです。そして、仏教ではなく、神話に現れた日本の民間信仰に、“縁るべき樹”を求めようとしています。

賢治は、「青森挽歌」などで、正統教義に基いた“死後の世界”を描こうと努め、そのためには、ヘッケルなどの科学的思惟をも動員しようとしているのですが、けっきょくのところ、それは、ありのままの彼の心性に即したものとは、なっていないのだと思います。

多くの鑑賞は、作者自身の思いに引きずられて、亡き妹に対する執着の大きいことを問題にしますが、ギトンは、むしろ逆側から見たほうがよいのではないかという気がしています。
つまり、肉親としての追憶の情を、あえて宗教的な思惟で切り刻もうとしていることのほうに、むしろ特異さを見るべきではないかと。

さて、つぎのエピソードの内容は、トシからは離れています:

. 青森挽歌 三

「『太洋を見はらす巨きな家の中で
 仰向けになって寝てゐたら
 もしもしもしもしって云って
 しきりに巡査が起してゐるんだ。』
 その皺くちゃな寛い白服
 ゆふべ一晩そんなあなたの電燈の下で
 こしかけてやって来た高等学校の先生」





眠りから覚めた他の乗客が、自分の見た夢を語っているのだと思われます。
“しきりに声をかけて起こしている巡査”は、フロイトの深層心理学で言う《超自我》を思わせます。

★(注) 超自我:フロイトの後期理論に現れ、自我に対して監視人、裁判官の役割をして規範、道徳、倫理などを伝え、欲動に対する抑圧・防衛行動を促す前意識的な精神領域。

ただ、よく分からないのは、「寛い白服」、「あなたの電燈」の「あなた」、そして「高等学校の先生」は、同じ人なのかどうか?‥

それとも、「あなたの電燈」とは、この「高等学校の先生」の《超自我》を指す比喩でしょうか?
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ