ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
81ページ/250ページ


7.1.80


「蛍光板」とは、どんなイメージでしょうか?‥蛍光灯のようなものでしょうか?

しかし、しきりに「あやしい」と形容されていますから、光学用語としての「蛍光」の本来の意味を参照したほうがよいと思います。
「蛍光(fluorescence)」は、紫外線など短波長の電磁波(ブラックライト)で励起された物質が、ぼんやりとした光(可視光線)を発する現象です。“蛍光塗料”“蛍光アート”“蛍光灯”など、みな、“蛍光物質”の発光を利用しています:画像ファイル・蛍光 画像ファイル・蛍光

電磁波の照射を受けている間だけ発光するものを「蛍光」、照射がやんでもしばらく発光を続けるものを「燐光」と言って区別する場合もありますが、総称して「蛍光」とも言います。

「蛍光」の“賢治用語”としてのポイントは、@暗闇でぼんやりと光る青〜緑系統の色、A他からエネルギーを受けて光ること、だと思います。
用例としては、「無声慟哭」の「毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき」、「小岩井農場・パート3」の「鉄ゼルの fluorescence」などがあります:画像ファイル・蛍光菌

この「青森挽歌」の用例では、上のAが重要だと思います。エネルギー源は、「月のあかり」です。
これは、

「 《 願以此功徳 普及於一切》」

という・消された行と関係があります。

この漢文は、“回向文(えこうぶん)”または“回向偈(えこうげ)”というもので、仏教で、勤行・法要などの終りにとなえる文だそうです。

仏事を行った功徳を、己だけのものにすることなく、縁ある者すべての功徳(メリット)となるようにする意味があるそうです。(もっとも、“回向文”の本来の意味は、‘縁ある者’も無い者も、およそ一切すべての衆生に功徳を振り向けることを願います。)

“回向文”は、宗派によって異なりますが、↑上で賢治が書いているのは、天台宗・真言宗・日蓮宗で用いられる“回向文”の前段部分です。(浄土宗、浄土真宗は、別の回向文。)

この“回向文”の全文は、つぎのとおり:

 願以此功徳 普及於一切
 我等與衆生 皆共成佛道

【読み下し】願わくは此の功徳を以って 普く一切に及ばしめ 
      我等と衆生と 皆共に佛道を成ぜん。

【大意】〔この功徳を、あまねくすべての衆生に及ぼし、
     われらと衆生、みな共に、仏道を成し遂げることを願う。〕

なお、これは、『妙法蓮華経』の 「化城喩品第七」 にある文句です。

ここで重要なのは、引用されている“回向文”前段の意味です:

「願わくは此の功徳を以って 普く一切に及ばしめ」

これは、「半月の噴いた瓦斯」で大気が充たされ、「月のあかり」が「巻積雲のはらわたまで‥浸みわたり」、そうして及んだエネルギーに励起されて、夜明けの空は「蛍光板」となり、「あやしい匂か光かを発散」し、それがひいては、「苹果の匂」となって、列車の乗客たちにも、新鮮なエネルギーを送り込んでくる──という《心象》現象を、

“おのれのなした功徳を、一切の衆生に及ぼす”という“回向文”によって、宗教的に意義付けているのです。及ぼすべき“功徳”とは、ここでは、作者が夜明けの月と霧の光景から受けた・このすがすがしい印象だと思います。じっさい、それは、さわやかなリンゴの香りになって伝わってきているのです。

つまり、ここでも、賢治は、《異界》の《見者》としての《心象》を、宗教的観念の枠組みの中に位置づけようと努力しています☆

☆(注) しかし、その方向は、決して平坦ではなかったと、ギトンは思います。この「青森挽歌 三」の箇所でも、賢治の《心象》は「あやしい」イメージとならざるを得ません。回向文の宗教的観念と、調和しないようにも感じられます。手入れで回向文を削除したのは、宗教的意義づけがうまくいかないと判断したのかもしれません。この問題は、『二十六夜』、文語詩「雪峡」など、この後に書かれた一連の作品を追って、検討してみる必要のある課題だと思っています。

また、夜の間、もっぱらトシの“死後の行くえ”に向けられて堂々巡りしていた作者の思索を、ここで転換し、大乗仏教が重視する“一切の衆生”のほうへ向ける意味があるのだと思います。
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ