ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.61


《世界》の創造は、サットヴァ・カルマン(衆生の業[ごう])が風を惹き起こして始まるのでしたが、前節では、だだっ広く平たい《風輪》の層の中心に、ずんぐりした円柱形の《水輪》が生じて乗っかるところまででした。

「水の層は、やがて、サットヴァ・カルマンによって吹き起こる風のために吹きさらされてわかしたミルクの表面に膜が生ずるように≠オだいに凝固してゆき、上層七分の二は『黄金の層』となってしまう。あとの七分の五が水の層として残るわけである。」
(op.cit.,p.29)

この「黄金の層」が《金輪(こんりん)》です。

《金輪》は《水輪》の上部が固まったものですから、直径は両方とも直径962万7600`b、高さは、《水輪》が640万`b、《金輪》が256万`b。
つまり、《風輪》《水輪》《金輪》の層の厚さは、10:5:2の割合になるわけです☆

☆(注) 《金輪》と《水輪》の境目を、“金輪際(こんりんざい)”と言います。つまり、地上から256万`b掘り下げた大地の一番底というわけで、地獄よりも下でして、“物事の極限。ゆきつくところ”という意味の“金輪際”という言葉の語源だそうです。


《金輪》の上面がわれわれの大地になるわけですが、そこに山や河や海が形成されて、自然界の創造は完了します。
もちろん、これは、《多世界宇宙》の中の一つの《世界》の成り立ちに過ぎません。
ちなみに、念仏を唱えると死後に連れて行ってくれるという《阿弥陀浄土》は、阿弥陀如来が、私たちをたやすく往生させるためにこしらえた一つの《世界》なんだそうですw

自然にできあがるのを待ってないで人工的(仏工的?)にこしらえたリゾートみたいなもんなんですかね?

「自然界が完成されるとそこに生物すなわち有情(サットヴァ)が発生する。」

つまり、すでにあったほかの《世界》から転生して来るわけです。

「まず天上の世界からそれが始まる。すなわち、まっさきにこの世に生まれ出るのは天の神々(『天人』『天女』などといわれるのがそれである。神々といってもサットヴァの一種にすぎない)である。ついで、地表の世界に人間・動物などが発生する。最後に地下の世界、すなわち地獄にも、地獄のサットヴァが生まれ出ることによって、世界形成の過程は完了する。」
(op.cit.,pp.29-30)

この創造過程に、どのくらい時間がかかるかというと、自然界の完成までに1中劫(アンタラ・カルパ)、自然界の完成後、生物界の形成完了までに19アンタラ・カルパ、合計20アンタラ・カルパ★を要するそうです。

★(注) 1アンタラ・カルパは、ある換算では1599万8000年(op.cit.,p.30)別の換算では349京2413兆4400億年。したがって、20アンタラ・カルパは、3億1996万年(6984京8268兆8000億年)となります。

そうやって創造された一つの《世界》は、完成してから20アンタラ・カルパの間存続し、つぎの20アンタラ・カルパの間は破滅の過程をたどって最後に消滅します。

世界破滅の過程は
「世界形成の過程とまったく逆の経過をたどる。すなわち、まず地獄から始まって地上の世界、天上の世界という順序に生物が消滅してゆき、この世のすべての生物が滅び尽きるまでに、十九アンタラ・カルパの時が過ぎる。そして残りの一アンタラ・カルパのあいだに、〔…〕自然界はそれを成り立たしめるサットヴァ・カルマンが尽きはてて&ェ解消滅してしまうのである。」(op.cit.,p.30)

地獄がカラになるっていうのは、いいですねw‥地上の人や動物も、どんどん天人・天女に生まれ変わって、神さまばっかりになってしまうから、最後にはこの世界がなくなってしまうって言うんですね。

煩悩や快楽を感じる生物が絶えてしまったら、自然界も、存在しつづけることができなくなってしまうんでしょうか。まぁそれは、しかたないかもしれませんね。。。
このように、仏教は、生きものあっての自然界、“有情”あっての世界という考え方なんですね。“唯識学派”のような本格的な大乗仏教になると、その傾向はさらに強くなって、実体(スヴァバーヴァ)の存在を否定し、色や形は、眼が見るから有るのであって、「表象という場を離れて、外界に存在しているのではない」と考えます(op.cit.,p.252)。

これに対して、自然科学は、人がいなくとも自然は存在するし、生物がいなくとも宇宙は存在する。人間などは、宇宙の片隅でたまたま発生して存在するにすぎないと、考えます。本来の科学は、スピノザやヘッケル以上に“冷たい”自然観だと思います。

そして、宮沢賢治も、基本的な自然観というか、彼の自然感覚は、仏教のような唯識的なもの、あるいは倶舎論的なものでさえなくて、──アニミズムの傾向はあるにしても、汎神論のような確信されたものではなく──むしろ、科学的な自然観に近かったと思うのです:

「たれも見てゐないその地質時代の林の底を
 水は濁つてどんどんながれた」
(小岩井農場・パート4)

  

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