ゆらぐ蜉蝣文字
□第7章 オホーツク挽歌
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7.1.59
しかし、仏教の場合には、この“天地創造”からして、キリスト教とはまったく違います。そもそも、誰かひとりが造った‥というようなトップダウンの考え方を、仏教は非常に嫌うのです。
日本神話ですと、イザナギ・イザナミの2神が造ったことになりますが、──キリスト教が多国籍企業マイクロソフトだとすれば、こちらはパパママ経営の町工場ですが──日本もやはり、トップダウンには違いありません。
仏教では、“すべての有情(うじょう)”、つまり、あらゆる生きもの──人、動植物だけでなく、神々、阿修羅、餓鬼、魔ものなども含まれます──が生きて活動している結果として、この世界が存在するのだ‥と言うのです:
「それでは、自然界は、造物主によらずに、何によって形成されたのであろうか。『倶舎論』によれば、それは『サットヴァ・カルマン』によって生まれるのだという。
『サットヴァ』とは、ふつう『有情(うじょう)』とか『衆生(しゅじょう)』とか訳されている語で、この世に生命をもって存在するもの、あらゆる生きものを意味する。
『カルマン』はふつう『業(ごう)』と訳されるが、行為・動作の意味である。
したがって、『サットヴァ・カルマン』とは生命あるものの行為、生命体の生活行動、ということになる。」(櫻部建・ほか,op.cit.,p.26)☆
☆(注) この部分の執筆者・櫻部建氏は、対談の中で、仏教は、“世界の始原”から創造神や根本原理を消しさって「サットヴァ・カルマンが起こす」と説明している点で、「そこははっきり無神論の立場を貫いている」と述べています(op.cit.,p.245)
そうすると、“生きものの業”によって世界が造り出される前は、生きものたちは虚無の中にただよっていたのか?‥というと、そうではないのです。
ここに、《輪廻(りんね)》という哲学のすごさがある‥。
「果てのないほど広大な宇宙空間の中では、この場所に『この、一つの』自然界がまだ成立していないときにも、他の場所には『他の、多くの』自然界が現に存在していると考えられる。」(op.cit.,p.27)
つまり、仏教は《多世界宇宙論》★なのです。
★(注) 仏教では“三千大千世界”と呼ばれますが、多世界宇宙全体が擁している《世界》の数は10億個とされます。
そして、《輪廻》は、一つの三次元世界の中でだけでなく、異なる《世界》の間でも行われる。私たちは、この《世界》の中で転生するとは限らない。ほかの《世界》へ転生することもあるというのです。
したがって、この・私たちの《世界》がまだ無い時でも、ほかのたくさんの《世界》には、将来出来る私たちの《世界》に生まれる予定の有情が、たくさんいたはずです。その有情たちの《業》の力によって、私たちの《世界》は成立した、というのです。
「サットヴァ・カルマンによって自然界が創り出される。それは、すべての有情が、もっと直接的にいえば、すべての人間が、生き行為すること──泣き笑い、喜び怒り、善悪の行為をなすこと──それが、全体として、一つの宇宙を創り出す結果を生む、という考えにほかならない。
宇宙を生成するエネルギーと、一個体が、一人間が、生き行為し動作する力とは、根源的に同一であるとする考え方であると言ってもよいかもしれない。」(a.a.O.)
ここでちょっと思いついたのですが‥、この《多世界宇宙》という考え方は、私たち日本人に馴染むだろうか?‥ということが気になるのです。
たしかに、SFとしては面白いけれども、それを信じる気になるかということです。‥しかし、インドの人ならば、《多世界宇宙論》を、むしろ馴染み深い考え方として受け入れるのかもしれない。
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