ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.5


次の作品「オホーツク挽歌」は、当時鉄道で行ける最北端だった《栄浜》(さかえはま; 現・スタロドゥプスコエ)で、日付は8月4日、朝から昼前までの情景。したがって、列車ダイヤから、前日3日に栄浜に到着して宿泊したはずです。

3日中の移動は、大泊駅午前9時30分発、13時10分発の2本があります。

午前9時30分発の列車に乗ったとすると、大泊港の下船から大泊駅発車まで2時間しかなく、艀で桟橋へ行って、駅まで歩くことを考えれば、乗り換え以外のことをしている時間はないでしょう☆。その場合、就職あっせん依頼は、栄浜から帰って来た後になります。

☆(注) 藤原浩氏は、細越氏が港まで出迎えて、食堂にでも入って賢治と話し、9時30分発に間に合わせたのだろう‥などと想像しておられますが(op.cit.,p.33)、ギトンにはとうてい考えられないことです。そんな短時間の会見では、3日かけてわざわざ出向いて来た意味がありません。

しかし、13時10分発までの間に細越氏に会ったとしても、前述したようなデリケートな事情を説明する余裕があったでしょうか?

いわば“前科のある”教え子の就職依頼なのです。あっせんしてくださる方には、内密で事情を話し、上司の方にも内密で伝えていただいて了解をとった上で、受け入れてもらわねばなりません。そのためには、手紙などでは済まないのです。教師が直接行って、信頼関係のある会社側の人間に膝を詰めて話し、理解を得なければなりません。賢治が、どうしてもサハリンへ赴く必要があったのは、そのためでした。





したがって、賢治は、3日に細越氏と会ったとしても、栄浜から戻ってきた後にも会って、詳しく説明していると思うのです。

しかし、それならば、栄浜へ行くのを後にして、3日は一日大泊にいればいいじゃないか‥どうして、そんなに急いで北上したのか??‥という謎が湧きます‥

それほどまでに、“トシのゆくえ”を追いかけようとしたのでしょうか?‥

まぁ‥それもたしかに考えられるのですが(笑)‥ギトンは、もっと現実的な都合もあったと思うのです。
曜日を見ると、サハリンに上陸した8月3日は金曜日です。細越氏は勤務があったでしょう。内密な話をゆっくりとしている気持ちの余裕は、無いかもしれない。

栄浜へ行って帰って来た8月5日(日曜)ならば、ゆっくりと時間をとってもらえるでしょう。事前に、日曜の会見を約束しておけばよいことです。

このように考えると、栄浜のあとの5日〜6日は、豊原か大泊にいて、教え子の就職活動をしていたと推定されます。
もちろん、時間があれば、《樺太庁博物館》★などを訪ねたでしょう。夜は、同窓生らの歓迎を受けて宴会に出ています。

★(注) 豊原の《樺太庁博物館》は、賢治の好きそうな先住民関係の民俗資料を中心に展示していました。
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