ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.4


さて、賢治がじっさいに辿った旅程を、最初に見ておきたいと思います。

 □ サハリン地図 □ サハリン地図(栄浜) □

7月31日 花巻発21:59普通列車で出発(車中泊)

8月1日 →青森5:20着。青森港7:55発:青函連絡船→函館港12:55着。函館桟橋※13:45発:普通列車→札幌→(車中泊)

8月2日 旭川4:55着、農事試験場を訪問*。11:54旭川発:普通列車→21:14稚内着。稚内港23:30発:稚泊連絡船→(船中泊)

8月3日 大泊港7:30着。大泊9:30発(13:10発?):樺太庁鉄道線→栄浜14:50着(18:20着?)。栄浜泊。

8月4日 栄浜16:35発→豊原19:33着。豊原泊?(→22:15大泊着。大泊泊?)

8月5日(日曜) 豊原?大泊?

8月6日 豊原?

8月7日 “鈴谷平原”を訪問。豊原16:25発→大泊18:30着。大泊港21:00発:稚泊連絡船→(船中泊)

8月8日 稚内港5:00着。(稚内7:25発普通列車→旭川16:51着,17:03発:急行→札幌21:02着) 稚内11:40発普通列車→名寄20:22着(接続)20:50発普通列車→旭川23:45発→札幌(9日)5:22着

8月9日  →札幌5:22着  …札幌→小樽 小樽泊?

8月10日 小樽22:04発:上り急行列車→…

8月11日 …(車中泊)急行列車→森4:44着→函館桟橋※6:27着。函館港7:30発:青函連絡船→青森港12:00着。→(青森13:30発急行→盛岡18:29着)青森14:55発普通列車→盛岡20:59着→花巻22:00(花巻着は12日?)

  ※函館桟橋駅開業は1924年10月だが、1923年当時も、連絡線接続列車は、桟橋乗降場まで入線していた。
  *《北海道農事試験場上川支場》。1904年移転前の跡地(旭川市六条11-13丁目)まで行ったことは判明、試験場まで達したかは不明。
〔『宮沢賢治とサハリン』pp.14f,48f,63.参照。『公認汽車汽船旅行案内』346号(大正11年6月15日現在),1923.7.1.,旅行案内社.により、一部改〕

各作品の作品日付を信用すれば、何日にどこにいたかが分かります。作品の内容から一日のうちの時間帯が判りますし、時刻のわかる作品もあります(「オホーツク挽歌」「噴火湾(ノクターン)」)。
そして、当時、長距離列車は本数が少なかったので、時刻表を調べれば、賢治の乗った列車は、だいたい特定できるのです。

「青森挽歌」は8月1日付で、深夜、青森に向かう車中です。詩の途中で、青森に近づいたあたりで夜が明けます。次の「津軽海峡」は青函連絡船の上、同じ8月1日付で、昼間。そうすると、列車ダイヤから、前日7月31日21時59分花巻発の列車に乗車したことになります。

「駒ヶ岳」は、描かれた駒ヶ岳の形から、大沼〜森駅間と思われ、やはり昼間です。

「旭川」は朝のようですが、列車ダイヤによると、この間に一日経過しているはずですから、8月2日になります。農事試験場を訪問しようとして、馬車で「六条13丁目」へ出かけますが、試験場は移転したあとでした。その後の足取りは不明。

「宗谷海峡」は8月2日付で、深夜に稚内港で連絡船に乗り、出航しています。
そうすると、サハリン南端の港《大泊》(おおどまり; 現・コルサコフ)下船は、8月3日午前7時30分。

大泊には、王子製紙樺太分社と大泊工場があり、教え子の就職依頼の相手である細越健氏は、ここに勤務していたとされます(『新校本全集』「年譜」)。
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