ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.41


大ざっぱに言うと、われわれの自然科学の基本法則──“物質・エネルギー不滅の法則”は、ヘッケルの考えでは、200年前にスピノザが哲学として説いたことを、科学的に証明したものにほかならない。

そして、スピノザの哲学では、“神”とは、天国に居る人でも、イエス・キリストでもなく、この宇宙に存在するすべての物質・エネルギーの総体のことだ、──いわば「世界」と言ったり「宇宙」と言ったり「神」と言ったりするけれども、…それらはみな、同じものを別の名前で呼んでいるだけなのだ‥と言うのです。

これがスピノザの汎神論であり、ヘッケルの《一元論》的宗教思想なのです。

その“神”、つまり宇宙の唯一無二の“実体(実質)”が、物質になったり、エネルギーになったり、化学反応を起こしたり、熱になったり光になったりして、さまざまに変化流転して行くのが、われわれの目に見えるこの世界なのだと。

「実体のこれらの様式は、もしわれわれがそれらを広がり(“空間を占める”という)という属性において観るならば、物体であり、質料体である。

 他方、もしわれわれがそれらを思考(“エネルギー”)という属性において観るならば、力であり観念である。」

どうでしょうか?‥↑こちらの叙述は、かなり《エネルギー論》に近づいてはいないでしょうか?

ここに言われている「思考」「観念」は、『生命の不思議』で述べていた“物質の感覚・意志”のような原始的なものだけではないように読めるのですが。。。

これを、宇宙空間に「思考」が漂っているように読み取ったら、誤読なのかもしれませんが、‥そう読みたくなる余地があります。‥すくなくとも、賢治はそう読み取ってもおかしくないような気がするのです。。。

ともかく、ヘッケルの思想は、多義的な面をもっていると思います。

鈴木氏は、小野氏の論述を、「誤解を招きやすい」「不透明さが付きまとっている」と批判しておられましたけれども(op.cit.,p.169)、もともとヘッケルの書き方が多義的なために、そこを噛み砕いて理解しようとすると、どうしても曖昧な面が出てしまうのではないかと思うのです。

しかし‥もし、そうだとすると、宮沢賢治もまた、ヘッケルの真意を理解しようとして苦労したのではないでしょうか?‥当時、訳書が各種出ていたにもかかわらず、すくなくとも『生命の不思議』のほうは、原著まで取り寄せて読んでいるのは、そのためではないかという気がするのです。。。

また、それを逆に考えれば、賢治は、ヘッケルの著述を下敷にして、自分なりに思索を広げてゆく余地があったのではないかと思われるのです。

さて、ここでもう一度、問題のパッセージに戻りたいと思います:

. 春と修羅・初版本

099わたくしがその耳もとで
100遠いところから聲をとつてきて
101そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
102萬象同歸のそのいみじい生物の名を
103ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
104あいつは二へんうなづくやうに息をした
105白い尖つたあごや頬がゆすれて
106ちいさいときよくおどけたときにしたやうな
107あんな偶然な顔つきにみえた
108けれどもたしかにうなづいた
109   《ヘツケル博士!
110    わたくしがそのありがたい證明の
111    任にあたつてもよろしうございます》
112仮睡硅酸の雲のなかから
113凍らすやうなあんな卑怯な叫び聲は……

まず最初に考えたいのは、99-108行目と109-111行目との間の関係です:

 

@だけでヘッケルと繋がるかどうかは、やはり危うい感じがします。ヘッケルは、エネルギー論、とくに、精神的エネルギー(あるいは“思考”エネルギー)の移転というようなことを、具体的に述べているわけではないからです。

しかし、@とAを合わせれば、トシは本当に“死後の旅”に旅立ったはずだ、と思わせるには十分かもしれません。

そうすると、もし、@Aから得られた期待が、Bの「証明」に繋がっているのだとすると、前に引用した秋枝美保氏の指摘には、あるいは当たっている面もあるかもしれないと、思われてきます。
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