ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.39


思うに‥《一元論》とは、“物質界のほかに、精神、たましい、神などの存する精神界が存在する”という・西欧の伝統的なキリスト教思想を覆そうとする・アンチテーゼなのだと思います。つまり、“精神うんぬんだって物質界の一部じゃないか!非科学的な迷信で人を惑わすのはもうやめろ!”と言いたいために、《一元論》というオール・イン・ワンの枠組みを造るわけです。

なので、説明のしかたとしては、@精神も物体(物質)だと言う(ギリシャのデモクリトスなど)、A精神はエネルギーの一種だと説明する、の2通りがあると思うのです。オストヴァルトもヘッケルも、Aに含まれるわけです。

ただ、その・精神を含む“エネルギー”と、物体(物質)との関係の説明として、(イ)われわれが物質と言っているものも、その実体はエネルギーだ(オストワルド)と言うか、(ロ)エネルギーと物質とは、同じ実体の2つの属性だ(ヘッケル)と言うかの違いがあるにすぎないのではないか?‥ギトンは、そんなふうに思うのです。

ところで、↑いまの点についてのヘッケルの説明は、じつは2通りが書いてあって、この(ロ)は、『宇宙の謎』に書いてある説明なのですが、『生命の不思議』ではまた別の説明になっているのです。

そして、小野隆祥氏は『宇宙の謎』のほうの説明に依拠し、鈴木健司氏は『生命の不思議』のほうの説明に依拠しているために、《エネルギー論》に対するヘッケルの見解について、意見が異なってくるように思われるのです。

鈴木健司氏が依拠している『生命の不思議』のほうの説明は、すでに引用を示しましたが、もう一度まとめると、↓次のようになると思います:

● ヘッケルが主張する“物質の感覚・意志”としての“エネルギー”とは、すべての原子、分子に備わっている物活論的物質としての性質にすぎません。

● 原子、分子は、みずから備えた“感覚”によって、他の原子、分子を“認識”し見分けて、化学反応や、結晶の形成を行うわけです。それを、今日の物理学・化学では、“内部エネルギー”“電磁気”“分子間引力”といった概念で説明している。しかし、ヘッケルは、いわば生物学的に、微生物などのふるまいをモデルにして説明するわけです。

 したがって、↑この説明による限り、エネルギー、すなわち「精神の存在は、原子の属性としてしか存在する余地がない」(鈴木氏)。そのようなものが死後も認められたからといって、人間などの大脳皮質細胞が営むような・個体の高度な思考作用が存続するなどとは言えないことになるでしょう。

しかし、小野隆祥氏は、

「根源の実体が物質と精神の二つの属性を示すのであり、精神は有情
〔≒生物──ギトン注〕のエネルギーの集中にすぎない。」

★(注) 鈴木健司『宮沢賢治という現象』,p.169.所引。

と述べ、人間その他の生き物の“精神”は、ヘッケルによれば、「エネルギーの集中」として説明される、としています。

したがって、そこから敷衍すれば、肉体の死後も、何らかの形での“精神”すなわち「エネルギーの集中」の存続を考えることは、不可能ではないことになります。

秋枝美保氏は、さらに明確に:

「ヘッケルの新しい科学的な生命観や、世界運動のあり方は、賢治にとって、やはり魅力的なものであったと考えられる。それは、『ヘッケル博士!わたくしがそのありがたい証明の任にあたってもよろしうございます』という、ヘッケルに対する一見媚びを含んだ親和的な態度になって現れていると思われる。それは、妹臨終の時に、どのようなエネルギーの置換が生じたかを、ヘッケルの理論を応用して説明し、霊魂の新しい段階を証明するという意図を描いているのではなかろうか。とし子は臨終のとき『けれどもたしかにうなづいた』のであるから。〔…〕

 しかし、この時期の賢治には、『ヘッケル博士』、あるいは科学的な理論に対して、かなり強い期待があったことも確かである。」


◇(注) 『宮沢賢治 北方への志向』,pp.211-212. 太字は引用者。

と述べています。つまり、賢治は「ヘッケルの理論を応用して」、「エネルギの根源‥の名」を「ちからいつぱい叫」ぶことによってトシの「霊魂」エネルギーを転換させ、異空間への移行という「新しい段階」に進ませたことを証明しようとしているのだと。

おそらく、2氏は、鈴木氏とは異なって、『宇宙の謎』のほうを参照しておられるのではないかと思うのです。。。
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