ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.3


1917年のロシア革命でロシア帝国が倒れ、ボルシェヴィキ社会主義政権のソヴィエトが誕生しますと、列国はさまざまな名目を設けて(チェコ兵救出など)ロシアに革命干渉の軍隊を派遣します。西欧諸国は、ロシア国内でまだ社会主義政権と戦っていた“白軍”☆を支援することに主な関心がありました。

☆(注) その歴史的状況は、ショーロホフ『静かなドン』(映画にもなっています)を見ると、よく分かります。

しかし、旧ロシアの極東地域までは、西欧諸国は手が回らず、アメリカは当時“モンロー主義”で“ヨーロッパのことには関わらない”を国是にしていましたから、しぜん日本が派兵を要請されることになります。これが《シベリア出兵》★です。

★(注) シベリア出兵については、宮澤賢治も関心を持って見ていたらしく、ちょうどこの1923年4月15日の『岩手毎日新聞』に、童話『氷河鼠の毛皮』を掲載しています。この童話は、シベリア鉄道らしい夜行列車に乗った成金紳士「イーハトーブのタイチ」が、“赤軍”を譬えたと思われる・白熊の毛皮をかぶった山賊に襲われる話ですが、同乗していた質素な身なりの「青年」は、“赤軍”の行動にも一定の理解を示しながら、彼らを制止し説得し、成金紳士を解放させます。






もっとも、日本が《シベリア出兵》に参加したのは、じっさいには自国の領土的野心からだったようです。サハリンについても、このさいあわよくば北部まで日本領にしてしまおうという意図が、あったと思われるのです。

鉄道連絡船(稚泊連絡船)の開通なども、新興地・樺太に国民の関心を向けて、開発を進めようとする政府の意向によるものでした。

日本国内では、当時、マスコミ(もっぱら新聞)を通じて、鳴り物入りで国民の“北方熱”を煽っていました。

宮澤賢治が、安い鈍行列車を乗り継いで、やっとの思いで樺太へ渡った翌年、1924年には、あの北原白秋が、政府の招待で樺太へ豪勢な“大名旅行”をして、旅行記『フレップ・トリップ』を出版しています。これなども、政府の“北方プロパガンダ”の下請けと言ってよいでしょうw

東北地方でも、各地駐屯の陸軍師団から樺太への進駐があいついでいました。
1923年4月には、弘前の第8師団と盛岡の工兵隊1個中隊が樺太へ向かい、これに関連して、岩手県の新聞は連日、ロシア、サハリン関係の記事を掲載していました。たとえば、『岩手日報』は、北サハリン(!)の気候、民族、歴史、資源などの紹介記事を連載しています◇

◇(注) 藤原浩『宮沢賢治とサハリン』,2009,東洋書店(ユーラシア・ブックレットNo.137),pp.11-12.

たしかに、宮澤賢治も、当時の国策としての樺太熱に乗せられて‥行ってみたくなった面はあると思います。また、それに加えて、賢治の“鉄道マニア”が、宗谷海峡の連絡船開通を機に、燃え上がったかもしれません‥

しかし、賢治がこれだけの日数をかけて、しかもおそらく公費で、行くことができたのは、樺太・王子製紙に就職している盛岡中学・盛岡高農の後輩に、教え子の就職あっせんを依頼する目的◆があったからでした。

◆(注) 農学校の卒業生の就職先を、外地の樺太まで頼みに行くとは‥とってつけた口実のように思うかもしれませんが、じっさいにそうしなければならない理由があったようです。というのは、あっせんした2名(1924年3月卒業)のうち1名は、在学中に非行で警察に捕まり、起訴猶予になったものの、卒業後近在で働くことは困難だったのです。賢治としては、教え子の活路を見出すために、熱意を持って出かけたわけで、“とし子うんぬん”以上に、この正規の目的に意を注いでいたはずです。私たちは、どうしても、作者を作品だけから見てしまいがちですが、こうした点には、とくに気をつけなければいけないと思うのです。なお、この非行生徒の就職依頼については、関係者の証言に時期的な食い違いがあって未解明なのですが、堀籠教諭の回想談に、「あの旅行では、宮沢さんは、多くの詩を書いていますが、その夏Bをどうやって救ったらいいか考えた末に、樺太に就職することにきめて、出かけたのでした。〔…〕Bを世話したのはトマコマイの工場〔苫小牧に工場のある王子製紙株式会社のこと──ギトン注〕で、樺太にいったのは、農林〔盛岡高等農林学校。細腰、堀籠、賢治の出身校──ギトン注〕を一年先輩の細腰健というのが、豊原の製糸工場〔製紙工場の誤植──ギトン注〕にいたのでそれを訪ねていったのです。」とあるので、1923年8月のサハリン旅行時に、この生徒の就職を依頼したものと考えておきます。森荘已池『宮沢賢治の肖像』,pp.100-103.
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