ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.38


《エネルギー論》とは、何でしょうか?

鈴木健司氏の説明によると:

「『エネルギー論』は『原子論』に対立する概念として、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけ行われた自然哲学で、その中心となった人物はドイツの化学者オストワルドである。マッハなどもその有力な一員であった。

 オストワルドは熱力学を基礎とする触媒反応論でノーベル賞を授与された化学者で、一九世紀半ばにマイヤーが見出したエネルギー概念を発展させ、精神活動を含む宇宙における一切の現象がエネルギー概念で一元的に解釈できると主張した。


☆(注) 『宮沢賢治という現象』,p.166. 太字は引用者の強調。

ところが、鈴木氏によれば、ヘッケルは《エネルギー論》を認めなかったと言うのです:

「ヘッケルは『原子論』者であり、その点においてオストワルドと交わることはない。ヘッケルはオストワルドの『エネルギー論』を唯心論の一種と規定しており、自身の唯物論的立場から区別している。〔…〕

 ヘッケルは『原子論』者であり、精神の存在は原子の属性と
〔して──ギトン注〕しか実在する余地がない〔と考えていた──ギトン注〕。」(op.cit.,p.169)

しかし、いまウィキペディアを見ますと、まず、オストワルドと原子論の関係については:

「化学でよく使われるモルという言葉の語源は、1900年ごろ、オストヴァルトが最初に用いたといわれている。オストヴァルトは、モルは理想気体と大きく関係していると考えた。しかし皮肉なことに、このモルの概念を思いついたことが直接、マッハらと
〔ともに──ギトン注〕原子論への反対を示す原因となった。アルノルト・ゾンマーフェルトとの会話の中でオストヴァルトは、ジャン・ペランのブラウン運動の実験を見て、やっと原子論を受け入れるようになったと述べている。」

つまり、オストヴァルトも最終的には原子論を受け入れたのですが、はっきりした実験的証拠が見つかるまでは認めなかったということのようです。

また、オストヴァルトは、1906年から1916年まで、および第一次大戦後、国際原子量委員会の委員を務めていました。(原子量=原子の重さ)

したがって、オストヴァルトは、マッハのような強烈な反原子論者ではなかったと思われるのです。つまり、《原子論》と《エネルギー論》は、かならずしも矛盾しないということです。

さらに、オストヴァルトは、ヘッケルが設立した“自由思想家運動”の団体『ドイツ一元論同盟(Deutscher Monistenbund)』の会長を務めていました:

「1911年から1915年まで、ヴィルヘルム・オストヴァルトは、1906年にエルンスト・ヘッケルが設立したドイツ一元論同盟の会長であった。〔…〕
〔『同盟』の活動として──ギトン注〕オストヴァルトは、エネルギー論を宣伝し、とりわけ、国立教会の廃止を要求し、研究・教育への教会の介入を拒否し、特定宗派の宗教授業への参加強制に反対した。1912-13年には、教会からの脱退を唱導する無宗派委員会の活動を援助している。」(独語版ウィキ)

つまり‥ クリスチャンやめろ!教会と縁切りしろ!靖国神社‥じゃなかったルーテル教会の国家護持ふんさい!‥というアジテーションを繰り広げていたわけでw

まぁ‥ヘッケルにも負けない過激派ぶりですね‥w

そういうわけで、オストヴァルトとヘッケルの間には、決して対立するような立場の違いは無かったと思われるのです。



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