ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.35


そこで、ヘッケルの言う“霊魂(Seele)”という言葉の意味について、このへんで整理しておいたほうがよいかもしれません。

ヘッケルは、“霊魂”あるいは“心霊(Seele)”という言葉を二通りの意味で使っているようです:

“心霊(Seele)”@:人類や高等哺乳類の大脳で行なわれる高度な思考作用。意識の働き。個体(個人)ごとに存在する。

“心霊(Seele)”A:広く、物活論において、あらゆる生物、無生物、物質、分子、原子に認められる感覚・知覚とエネルギーの複合現象。“物質の思考”とも言う。

ヘッケルは、@の意味の霊魂、すなわち個人(個体)の心霊は、個体の死とともに消滅する。しかし、Aの意味での心霊は、あらゆる物質に備わっているのですから、いわば不滅です。

ただし、Aの意味での心霊は、@のような高度な作用ではなく、ずっと単純なものが考えられているのだと思います。
それは、あらゆる物質の結晶作用や化学反応に認められる作用に過ぎません。

したがって、人間が死ねば、@の意味での霊魂だけが生き続けることはありえないけれども、死体は物質である以上、個々の原子、分子そのものが、Aの意味での心霊(知覚と心)を持っている。
もちろん、死後もしばらくは生き続ける個々の細胞が、原始的な“感覚”を持ち、刺激に対して反応することは、私たちの常識でも可能なのですから、ヘッケルが言っていることは、それと大きく違うことではないようにも思えます。。。

つまり、Aの意味での“心霊”の不滅は、死後の人間が“どこへ行くのか”を考えている者にとって、はたしてどれだけの意味があるのか?‥あまり大きな意味がないのではないか?‥という感じがしてしまうのです。。。

さて、そこで問題になるのが、

 “仏教も(キリスト教と違って)霊魂死滅説だ”

と、ヘッケルが述べている意味です。

ヘッケルが、どれだけ仏教の教理を研究して、そう言っているのかは、明らかではありません。おそらく、原始民族の自然宗教(?)と並べて言っていることから考えると、仏教自体はあまり知らないで、キリスト教の“霊魂不滅”は特殊な考え方だと言うための、単なる例として引き合いに出しているだけかもしれません。

しかし、小野隆祥氏によれば、賢治の時代の日本では、仏教は霊魂の不滅を認めるものではないということが強調されていたというのです:

「賢治の頃、東大教授たちは、仏教の輪廻観は霊魂不滅説ではないと強調していた。」

 たとえば、姉崎正治は、バラモン教の輪廻は、死者の身体から
「霊魂が遊離して色々の生命に輪廻するが、仏教では霊魂が存しない。」と書いた。すなわち、バラモン教の「霊魂輪廻転生に対して変形・変態を仏教の輪廻観であると主張した。」

「大正一一年四月、〔…〕木村泰賢が『原始仏教思想論』を出した。賢治の妹トシの死の半年前である。木村は仏教的輪廻を、死後の『霊魂』が空間をかけ廻って種々の身分を取得するそれ以前のインドの輪廻説と異り、私たちの『生身(なまみ)』が『業(カルマ)』に従って『馬たり牛たり地獄たり天堂たり』と変ずると主張するのだと説いた。天堂とは天上界のことであるが、ここでは天人であろう。その『業』は生きんとする意志であり、輪廻とはベルグソンのいう創造的進化であり、一層正確には創造的輪化と称すべきであるとし、その輪廻する生命は『第四階(ザ・フォース・ダイメンション)の範囲に属する』とも述べた。」

☆(注) 小野隆祥『宮沢賢治の思索と信仰』,1979,泰流社,pp.202-203.

鈴木健司氏は、小野氏の議論の重要性を認めて、つぎのように述べます:

「ここで私見を挟むならば、賢治が唯物論
〔≒霊魂の死滅ないし否定──ギトン注〕の放棄というかたちでとし子の転生を考えたとは思われないのである。小野も引用しているが、木村泰賢の『原始仏教思想論』〔…〕に目を通してみると、当時の代表的仏教学者である木村が、釈迦の思想をいかに西洋流の哲学や心理学と矛盾なく結び付けることに腐心していたかを知ることができ、興味深い。ベルグソンの『創造的進化』と《業》説の共通性を説くなどはその一例であるが、当時の仏教研究がそのような状況下にあったとするならば、賢治にとっての《転生》の証明が科学的にも矛盾なく果たされるものとして構想された、という小野の見解は、充分検証に値する〔…〕」

★(注) 鈴木健司『宮沢賢治 幻想空間の構造』,1994,蒼丘書林,pp.64-65.
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