ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.34


その半面、ヘッケルは、しばしば優生学的な人工淘汰を主張しています☆。欠陥のある個体は誕生直後に抹殺せよ、などと書いているのです。それは、のちにナチスに取り入れられて、人種絶滅政策、障害者絶滅政策の論拠になったとも言われています。

☆(注) ヘッケルの論拠は、@古代ギリシャのスパルタや原始民族の間では“まびき”は当然の習慣だった、A新生児はまだ大脳皮質が発達していないので“心霊(Seele)の座”が無い、ということで、新生児殺害を殺人罪とする現代の法律は間違っていると言うのです!!

したがって、ヘッケルは、おおざっぱに言えば、科学主義的な唯物論者ですが、なかなかそれだけでは割り切れない複雑な面を持った思想家なのです。

. 画像ファイル:ヘッケル
たとえば、↑こちらの生物画ですが、単なる科学者の図解とは思えないものがあります。
画家の描いた絵画以上に詩的なものを感じさせるのです。ギトンは眺めていると、‘生きものの深い悲しみ’のようなものが伝わってきます。みなさんは、どんな感じを受けられるでしょうか?

もし、ヘッケルが純粋な科学主義であったなら、宮沢賢治が大きな関心を寄せることはなかったと思うのです。そうではない──そうではない点に、賢治は惹かれて、ヘッケルを精読したのではないか…★

★(注) 宮沢賢治が死後に残した蔵書の中には、『生命の不思議』の原書(Die Lebenswunder)が含まれていました。おそらく、日本語訳を読んだあと、それでは足りず、原書を取り寄せて精読していたのだと思われます。

そのへんに、“賢治の中のヘッケル”の難しさがあります。

それでは、賢治は、ヘッケルの著作のどんな点に惹かれて、読み込んだのでしょうか?

一つは、力学と原子論に基づく近代科学の成果を大づかみに把握し、その上に立つとともに、他方で、実験科学の成果に反しない限り、科学的知見の間隙をうめる仮説(物活論などの)をも、大胆に認めて行こうとする合理的自然哲学者の態度だと思います◇

◇(注) 気になっているのは、宮澤賢治の“科学の師”であった関豊太郎氏も、そのような自然哲学的な思想の価値を認めていたのではないかという点です。根拠となりうるのは、1918年7月に、助手を辞める相談で賢治が私宅を訪ねた際の関教授の助言なのですが、現在資料が手許にないため、この問題は他日を期したいと思います。

もう一つは、ヘッケルの主張する“物活論”の内容や、ヘッケルの描く詩的な“自然の造形”の持つ魅力だと思います。

しかし、私たちは、いま宮沢賢治を読んでいると、どうしても、もっと卑近な‥短絡的なことを考えてしまいがちです。
つまり、「青森挽歌」で追究しているような、死後の“生活”について考えてゆく上で、賢治はヘッケルの理論を参考にしようとしたのではないか‥?!

もし、ヘッケルの理論が、賢治にとって“導きの糸”となるのであれば、賢治の思索は、ヘッケルの「証明の任にあた」ることになるのかもしれません。。。

ただ、そこで大きな障害となるのは、ヘッケルはやはり基本的には“霊魂死滅”論者だということです。



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