ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.2


他方、「カラフト」という名称は、一説によると、アイヌ語の「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ」(kamuy kar put ya mosir)[神が河口に作った土地]☆に由来すると言われていますが、よく分かっていません。ともかく、日本では17世紀以後は、この土地を「からと」または「からふと」と呼んでいました。

☆(注) kar:〜が。put: 川。mosir: 大地、島。

もともと、この島は、オホーツク文化人★の居住地でしたが、
ロシア人や日本人が入植する以前には、ウィルタ(オロッコ)、ニヴフ(ギリヤーク)、アイヌの3民族が住んでいました。このうち、アイヌは後からの移住で、サハリンにもともと住んでいたニヴフを追いながら、北海道からサハリン南部へ移ってきたようです。

★(注) 北海道東部(網走付近)に居住遺跡を遺している古代民族。『日本書紀』では「粛慎」と呼ばれる。中国古代(前11世紀以後)の「粛慎」民族との関係は不明。また、現在の北方民族のどれかにつながるのかどうかも不明です。

歴史上の古い記録としては『日本書紀』があり、7世紀に阿倍比羅夫(あべのひらふ)が遠征した「幣賄弁島」の「粛慎」は、サハリン島とその住民だと云われます。

13世紀には、サハリン島の住民は、何度かモンゴル帝国に対して反乱を起こし、その間、日本からは、日蓮宗の日持上人のサハリン布教、津軽・安藤氏がサハリン住民を率いてアムール河口付近(キジ湖)で元軍と交戦するなどの関わりがありました。

樺太アイヌは、15世紀以後は明と交易し、16世紀以後は日本(松前藩)とも交易を始めます。

18世紀末以後は、松前藩の交易所が設けられ、日本人の移住も始まったと思われます。

他方、19世紀初めには、ロシア艦艇による攻撃(1806 文化露寇)があり、日露両国は沿海州・サハリンの沿岸調査(1808-09:間宮林蔵, 1848:ネヴェリスコイ)を行なうとともに、領有を宣言し合います。

しかし、日露の間で国境交渉をしても、主張しあうばかりでまとまらず、「ペリー事件」以後の1854年安政・日露和親条約では、国境は「樺太島上で定めず是までの仕来りによる」とされました。これまでのしきたりって‥??‥(笑)

明治維新後、1875年の樺太・千島交換条約により、日本はサハリン島の領有権を放棄し、全島がロシア領となりました。
そして、おそらくそれ以後と思いますが、サハリン島は、ロシア帝国の流刑地とされ、多数のロシア人流刑囚が移住するようになったのです。

1890年には、作家のアントン・チェーホフが、サハリン島の流刑囚の生活実態を、詳細に現地調査しています。
流刑囚のうち相当数が、刑期終了後もサハリンに残って牧畜などに従事していましたが、チェーホフも、南部の平野は「農業植民地としては北部の両管区を合わせたほどの価値を持っている」と評しています。のちの日本領時代に、ここに建設されたのが「豊原市」(現・ユジノサハリンスク市)です。

1905年、日露戦争後のポーツマス条約で、サハリン島の北緯50゚以南が日本領に取り決められました。
日本からの移住で、《南樺太》の人口はじょじょに増加し、1908年の約26,000人から、1920年には約10万人になっています。

日本人の生業は、現地の木材を原料とした大規模な製紙工場とその関連業種が大部分でした。《南樺太》は製紙工場とともに発展したと言えます。

そこで、貨物を中心に鉄道の敷設も少しずつ進みましたが、南部の町・栄浜(スタラドゥープスコェ)まで開通したのは、1913年でした。《南樺太》の開発は、日本に近い南端の地域が中心であり、中部・北部までは、鉄道網も達していなかったのです。

1923年5月1日、北海道の稚内と、サハリン南端の大泊(コルサコフ)との間に鉄道連絡船◇が開通し、函館から稚内への直通急行も開設され、盛岡駅で買った切符で、そのまま樺太の栄浜まで行けるようになりました:樺太庁鉄道路線図 樺太南部地図

◇(注) とは言っても、青函連絡船のように列車が桟橋で発着するような便利なものではなく、稚内港、大泊港の両方で、旅客は客船から艀(はしけ)に乗換えて陸に上がり、さらに桟橋から駅まで、歩いて行かなければなりませんでした。なお、稚内までの宗谷本線も1922年11月全通したばかりで、当時は天北線(浜頓別)経由でした:北海道北部鉄道地図

この1923年当時、日本軍は、《シベリア出兵》の一環として、国境を越えてサハリン島北部を占領しており、大きな戦闘はなかったものの、現地は緊張につつまれていたものと思われます。
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