ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.11.8


狩太・有島農場は、有島の父が国から払い下げを受けて開拓した(地主・有島家は、主に資金を出しただけですが)もので、「やすく出来た」と言っているように、有島家は、設備資金の投入も節約して、吝嗇経営をしていましたから、小作人の生活状態は、極めて悲惨なものでした。

有島は、解放に当たって、はじめは小作人の共有にすることを考えたようですが、当時、そのような権利関係は、日本の法律では許されていませんでした。

有島は、農場を財団法人組織にすると、「いはゞ専制政治のやうになつて」農民たちは、平等な「共有的精神」でやって行くことが困難になる。組合組織にしても、利益の分配は平等にならない。もとでの財産の多い者が得をしてしまう。と言っています。

そこで、「小作株」を持たせる案について述べています。おそらく、合資会社のような組織にして、土地は会社の所有、農民たちは全員が平等な株主、という形態ではないかと思います。

ともかく、このように、いろいろな農場組織を検討しているのは、各小作人の耕作地をそのまま小作人の所有に移して、ばらばらにしておくと、かならず「仲買人」や他の地主が暗躍して土地を買い集め、けっきょく最後には、大地主のもとで農民は高額小作料を取られる“解放”前の状態に戻ってしまうからです。

有島は、農場解放数ヵ月後に、↓つぎのように書いています:⇒有島武郎『狩太農場の解放』

「其儘小作人諸君の前に前記の土地を自由裁量に委ねる事は私が彼の土地を解放した精神である狩太農場民の自治共存を永久ならしめ延いて漸次附近村落を同化して行き得る如き有力なる団体たらしめる上に於て尚多少徹底しない所があるので狩太農場民の規約なるものを作り私の精神を徹底したい考へから森本博士に其規約の作製を依頼してあります。」

しかし、戦後の《農地改革》のような法律的な農民保護がない以上、いくら規約や組織を工夫しても、農場は、いつかは「四分八裂して遂に再び資本家の掌中に入ることは残念だが観念してゐる」と、有島は書いています。

このように読んでみると、有島が理想としたのは、やはり、各農民たちの相互扶助的な自作農経営だったと思われます。「共産的規約」「共産農園」という有島の表現は誤解を生みやすいですが、「公有」「共有」の美名の下に、実際にはイデオロギーを振りかざした少数のエリートのみが利益を独占する社会主義農場を、理想としてはいなかったのです。

農場の解放後、有島は石碑を建てることを計画し、土地は耕す者が所有すべきであること、また、せっかく農民のものとなった土地が、ほかの地主によって奪われてしまっては意味がないので、農民たちが共有して守ってゆくべきことなどを記した碑文を起草しています。
碑文の有島原案には:

「生産の大本となる空気・水・土地の如き自然物は、人間全体で使うべきで、一個人の利益のために私有されるべきものではない。」

などの文章がありました。

ところが、この碑文を石碑に刻むことは、警察当局によって不許可とされ、有島の生前には、碑は建てられなかったのです。

有島の死後、1924年に「農場解放記念碑」とだけ刻まれた石碑が建てられ、現在もニセコ駅に近い有島記念公園(旧・有島農場)に立っています。

そういうわけで、1923年にこの地を旅した宮澤賢治は、建てられた碑を見る機会は無かったと思われます。

しかし、賢治の少年時代に宮澤家の番頭をしていた福島正助からの聞書きによれば、「十歳の小学校三年生」の賢治は、

「いまに小作人だの地主だのずものなくなるべもや」

と言っていたと云いますから☆、賢治は、有島の農場解放のニュースには関心を持ったはずです。

☆(注) 栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』,p.31.
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