ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.11.7


有島は、ロシア革命後も、「民衆の大多数なる農民は、その恩恵から除外され」ていると認識していました。

というのは、有島の理想とする農業の姿は、ソ連の集団農場のようなものではなく、農民がそれぞれ自分の耕作地を所有して経営する・戦後の日本農業に近いものだったのです。

有島は、札幌農学校を卒業した後、アメリカに留学していますから、欧米の進歩した自作農経営を理想としていたのではないかと思います:⇒有島武郎『農場開放顛末』

「小樽函館間の鉄道沿線の比羅夫駅の一つ手前に狩太といふのがある。それの東々北には蝦夷富士がありその裾を尻別の美河が流れてゐるが、その川に沿うた高台が私の狩太農場であります。この農場は、私の父が〔…〕つくつたものであります。〔…〕それ迄にどれ丈けの金がかゝつたかといふと凡そ二万であります。二万円では やすく出来たのでありました。今この農場へ行つてみましても小作人の家屋はその最初と同じ掘立小屋なのであつて牛一頭も殖えてゐないのであります。私はこれを見て非常に変な感じに打たれたのでありますが、〔…〕幾分でも住居(すまひ)らしくなつた家は、小作をし乍ら小金をためて他の小作へ金を貸したりした人のもので、農業ばかりしてゐた小作人の家はいつまでたつても草葺の掘つ立小屋なのであります。〔…〕それから今一つ、この小作人と市場との間にたつ仲買といふのがその土地の作物を抵当にして恐ろしい利子にかけて所謂米塩の資を貸すのであります。小作人はこれにそれを借りねばならないのでありますがそのため時としては収穫したものをそのまゝ持つていかれて仕舞ふことがあるのであります。この仲買といふのが中々跋扈してゐます。

 私は明治廿七八年頃から小作人の生活をみてゐますが実に悲惨なものでありまして、そのため私の農場の附近は現在小作権といふものに殆ど値がないのであります。

 併し父も逝くなり〔…〕愈かの農場を抛棄することになつたのであります。私が自分自身の為仕事を見出したといふこともこの抛棄の決心を固めさせてくれました。〔…〕それからもう一つは農民の状態をみるとどうしてもこのまゝにしておけない、このことも強く自分に迫つて参つたのでした。

 狩太農場を開放するに到りました動機、それをたづねてみましたら先づ以上のやうなものであります。

 私は昨年北海道に行きまして小作人の人々の前で私の考へをお話しました。そして私の趣旨も大体は訳わかつてくれました。そのとき私がいつたことは『泉』の第一号に小作人への告別として載せておきました。私はどう考へても生産の機関は私有にすべきものでない、それは公有若くは共有であるべき筈のものだ。私有財産としてこの農場からの収益は決して私が収める筈のものでない。小作料は貴君方自身の懐にいれてどうか仲よくやつていつて貰ひたいとお話したのでした。

 〔…〕あの農場を小作人の共有にするといふことが許されないなら残つた方法は二つで財団法人にするか組合組織にするかであります。前者にするといはゞ専制政治のやうになつてそこに協調的施設が加はつても小作人自身は自分を共有的精神に訓練させることが困難となる。また組合組織にしても幾多の矛盾は避けがたく一例せば利益金の分配が極めて面倒なのであつてその創設のとき現金を多くもつた人が組合から一番多く利益をうけることになるのであります。

 今度出来てきた施行案は土地は皆のものであるとして小作株といふのを持たしてあるので、そのため公有になつても実際の状態は私有制度だといはれるのであります。〔…〕兎も角充分に案に付き練りました上で、農園の総会に提出したいと考へてゐるのです。農民自身が自身をトレインするものでもつと自由な共産的規約に致しておきたく思つてゐます。今迄に例がないのでクリエイトするより仕方ありません。この農場は共産農園と名付けることを望んだのでしたが共生農園といふ名になりました。

 私はこの共生農園の将来を決して楽観してゐない。それが四分八裂して遂に再び資本家の掌中に入ることは残念だが観念してゐる。〔…〕」
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