ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.11.6


そして、「ひのきのひらめく六月」とは、賢治が《異界》の神々を“刻みつける”行為に出た時期──つまり、しばらくやめていた《心象スケッチ》を再開した1923年6月初めのことだと思うのです。

. 春と修羅・「雲とはんのき」

24 (ひのきのひらめく六月に
25  おまへが刻んだその線は
26  やがてどんな重荷になつて
27  おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
28手宮文字です 手宮文字です

ひらめく「ひのき」とは、【第1章】の作品「春と修羅」に:

「  すべて二重の風景を
  喪神の森の梢から
 ひらめていてとびたつからす
 (気層いよいよすみわたり
  ひのきもしんと天に立つころ)」

とあったように、「ひのき」は、《異界》と現実が“二重”に重なった世界で、《異界》──天に感応して閃いているのです。

さて、「雲とはんのき」の「手宮文字」を、以上のように理解してみたのですが、‥‥これで決め手になるかどうか、正直言って分かりません。

↑「ひのきのひらめく六月に」という部分が、やはり、どうしても謎のまま残ってしまうのです。

「六月に」「線」を「刻んだ」とは、いったい何をしたのか?……それが「重荷になって」「男らしい償ひを強ひ」られるとは?……それが、詩作を再開したというだけでは、いまひとつピンと来ないのです。

そこで、もうひとつ、別の関連を考えてみました。(ますます脇道に逸れるかもしれませんが‥w)

1923年6月に何があったのか、いろいろ調べてみたのですが、宮澤賢治の「年譜」には、何もありません。「風林」と「白い鳥」のスケッチをした岩手山行のほかは、6月5日に学校に来た斎藤宗次郎に、「角礫行進歌」等について意見を求めたとあるだけです。

しかし、一般社会事件には、目立った事件がありました。

小説家の有島武郎が、6月9日に既婚女性の波多野秋子と情死(心中)し、7月7日に腐爛死体となって発見されるという事件がありました。
当時、新聞を賑わしたので、賢治も知っていたと思われます。

有島武郎は、自殺する前年の1922年に、北海道(ニセコ駅近く)に所有していた農場を解放しています。つまり、小作人たちに農地の所有権を委譲して、《戦後改革》の四半世紀前に農地解放を実行したのです。

これは、半封建的寄生地主制のもとで、高額小作料に苦しむ小作農民が多かった当時の日本では、センセーションを巻き起こさずにはいませんでした。
有島は、社会主義思想を抱いていたと言われていますが、ロシア革命や新興のソビエト連邦に対しては、批判的な意見を書いています:⇒有島武郎『宣言一つ』

「仏国革命が民衆のための革命として勃発したにもかかわらず、ルーソーやヴォルテールなどの思想が縁になって起こった革命であっただけに、その結果は第三階級者の利益に帰して、実際の民衆すなわち第四階級は以前のままの状態で今日まで取り残されてしまった。現在のロシアの現状を見てもこの憾(うら)みはあるように見える。

 彼らは民衆を基礎として最後の革命を起こしたと称しているけれども、ロシアにおける民衆の大多数なる農民は、その恩恵から除外され、もしくはその恩恵に対して風馬牛であるか、敵意を持ってさえいるように報告されている。真個の第四階級から発しない思想もしくは動機によって成就された改造運動は、当初の目的以外の所に行って停止するほかはないだろう。〔…〕」
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