ゆらぐ蜉蝣文字
□第7章 オホーツク挽歌
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7.11.3
今まで明示されていなかった「開拓紀念の石碑」が、はじめて言及されています。
【下書稿(二)】では「広場」に「まきちらし」ていた「湧きあがるかなしさ」を、
「わたくし」は、今度は、「開拓紀念の石碑の下に/力いっぱい撒い」ています。
ここには、“開拓”に対する作者の思いが、なにかあるようです。しかし、それを‘外から’無理に特定するのは禁物でしょう。「石碑」の下に、「湧きあがるかなしさ」を、「力いっぱい撒」くような思いなのです。
つまり、作者は【下書稿(三)】ではもう、「湧きあがるかなしさ」に浸ってはいないのです。それを「青い神話のきれにして〔…〕力いっぱい撒」こうとしています。
しかし、作者の努力はむなしかった‥あるいは、足りなかった。「小鳥は」やはり「それを啄まなかった」。
. 札幌市
「 札幌市
遠くなだれる灰光と
貨物列車のふるひのなかで
わたくしは湧きあがるかなしさを
きれぎれ青い神話に変へて
開拓紀念の楡の広場に
力いっぱい撒いたけれども
小鳥はそれを啄まなかった」」【下書稿(三)手入れ】
今度は、「開拓紀念の楡の広場」になって、場面の舞台は、今までよりも分かりやすくなっています。
「楡(にれ)」は落葉広葉樹で、北海道にあるのはハルニレですが:⇒画像ファイル:ハルニレ じっさいに《開拓記念碑》の広場に植えられているのは、ケヤキだそうです:札幌市・大通公園HP
しかし、ニレもケヤキも、感じはよく似ているので、気にする違いではないでしょう。
「湧きあがるかなしさを/きれぎれ青い神話に変へて」と表現が変ることによって、「青い神話」は、いまや、単なる「かなしさ」の比喩ではなく、物語か、詩作か、あるいはもっと形のないものか、‥ともかく、作者が工夫して考え出したものとなっています。作者による“変換”の操作が行なわれています。
「湧きあがるかなしさ」をそのままぶつけるのではなく、「青い神話に変へて」、「楡の広場に/力いっぱい撒い」ているのです。
自分の胸のうちから「湧きあがる」ものを──「かなしさ」とも言える思いを──「開拓紀念の〔…〕広場に/力いっぱい撒」いている作者の気迫が伝わってきます。
依然として、それが何かということは、狭く特定しないほうがよいでしょう。
しかし、「開拓」にかける思い、と言ってしまえば陳腐かもしれませんが、それは「湧きあがるかなしさ」にほかならない思いなのです。
作者は、「遠くなだれる灰光と/貨物列車のふるひのなかで」、その悲しみを、切れ切れの「青い神話に変へて」、広場に敷きつめています。
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