ゆらぐ蜉蝣文字
□第7章 オホーツク挽歌
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7.9.6
まず「朱金」を調べてみますと、江戸時代の貨幣(金貨)で「一朱金」「二朱金」(あるいは「一朱判」「二朱判」ともいいます)というものがありました:画像ファイル:朱金
↑1円玉と並べた写真がありますが、非常に小さなものです。金(きん)の含有量も少ないので、鋳造するときに、表面に金が集まって黄金色に見えるような仕上げ処理をしていました。そのため、流通しているうちに表面が摩滅して、メッキの塗りが禿げたように灰色になってしまいます。
このような金含有量の少ない貨幣が造られたのは、補助貨幣として、細かい金額の支払いを容易にして、市場取引を盛んにするためです。しかし、それ以上に、
鋳造者である幕府の目的は、金純度の高い小判などを、金純度の低い「一朱金」「二朱金」に改鋳することによって、余った金(きん)を獲得することにあったのです。つまり、あからさまな貨幣の改悪だったのでした★
★(注) 貨幣の悪鋳は、どんな経済的影響をもたらすかといいますと、貨幣の含んでいる金(きん)が減って行くと、額面どおりの実質的価値がないことになりますから、人々は貨幣を信用しなくなります。貨幣価値が落ち込んで物価は騰貴します。そして、純度の高い古い貨幣は退蔵され(悪貨と交換したら損をするので)、悪鋳された貨幣ばかりが出回るようになります(「悪貨は良貨を駆逐する」:グレシャムの法則)。その結果、人々はますます貨幣を信用しなくなるという悪循環になります。物価騰貴によって、消費者である町人や下級武士の生活は困窮し、“打ち毀し”などが起こり、終いには、幕府の崩壊に至る──これは、倒幕を促した経済的要因のひとつだと言われています。
「古金」のほうは、辞書を引きますと“江戸後期に、それまで通用していた金貨をいう”と書いてあります。つまり、幕府によって悪鋳される前の金貨ということになります。
こうして、「朱金」も「古金」も、金貨、あるいは財宝としての金(きん)を意味することが分かります。
そのような「朱金」や「古金」の出現を崇め、柏手を打って礼拝している「紳士」は、拝金教徒ないし拝金主義者ということになるでしょう。
しかし、ここで、もう一度「宗谷(二)」を見ますと:宗谷(二)
この詩は、単なる拝金主義の風刺にはとどまらないと思います。
「宗谷岬」「サガレン島」という地名が読み込まれ、「紳士」は「髪を正しくくしけづり」きちんと正装し、「古き国士のおもかげ」があるとされています。すなわち、「紳士」は、サハリンのような外地で、神道の格式を重んじる“憂国の士”でもあるのです。
“憂国の士”であると同時に、“拝金主義者”でもあるのです。それが、植民者の一つのタイプだったのでしょう。
賢治は、この「宗谷(二)」を書いた晩年においては、日本の軍事的な海外進出に対して批判的な気持ちを抱くようになったと思われます。
さまざまな大義名分を掲げながらも、結局は富の獲得を目的として行われる日本の海外進出と植民地支配に対して、晩年の賢治は、批判的な感情を持っていたと想像できます。
さて、もう一つの“根拠”は、この「宗谷海峡(二)」と同じ『文語詩未定稿』綴に入れられている文語詩「製炭小屋」の初期形「谷」です:
谷
木炭窯の火をうちけみし
花白き藪をめぐりて
面瘠せしその老のそま
たそがれを帰り来りぬ
「よべはかの慈悲心鳥(じふいち)の族
よもすがら火をめぐり鳴き
崖よりは朽ちし石かけ
ひまもなくまろび落ちにき」
ぜんまいの茂みの群も
いま黒くうち昏れにつゝ
焼石の峯をかすむる
いくむらのしろがねの雲
「いま妻も子もかれがれに
サガレンや 夷ぞにさまよひ
われはかも この谷にして
いたつきと 死を待つのみ」
とろとろと赤き火を燃し
まくろなる樺や柏に
瞳(まみ)赤くうち仰ぎつゝ
老のそま かなしく云ひぬ (「製炭小屋」【下書稿(一)】)
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