ゆらぐ蜉蝣文字
□第7章 オホーツク挽歌
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7.9.5
賢治の描く日の出の太陽は、決して神々しいイメージではないのです。むしろ、どろどろに変形して崩れようとする・おどろおどろしい驚異なのです。つぎのような晩年の文語詩が描く「日天子」は、そうした“崩れる太陽”イメージの極致かと思われます:
「 なだれ (了)
塵のごと小鳥啼きすぎ
ほこ杉の峡[かひ]の奥より
あやしくも神楽湧ききぬ
雲が燃す白金環と
白金の黒のいはや[岩屋]を
日天子奔[はし]りもこそ出でたまふなり」(「雪峡」【下書稿(三)手入れ(3)】)
ともかく、宮沢賢治にとっては、太陽もまた《異界》の存在だったのだと思います。
コルサコフ(大泊)と旧・連絡船埠頭
. 宗谷(二)
「舷側は燃えヴイも燃え
綱具を燃やし筒をもし
紳士の面を彩りて
波には黄金の柱しぬ」
「舷側」は、船体の側面、または側面が甲板上に突き出た“てすり”部分。
船も人も海も真っ赤に、黄金色に染めてしまう、この圧倒的な太陽の出現が、この作品の書かれた目的と言ってよいと思います。
呆然とする「紳士」の顔も真赤に染まり、波立つ海面には、水平線に向かって「黄金の柱」のような光跡が輝きます。
最初に見えた“虚像”に向かって拍手を打った謹厳な「紳士」は、にせものに騙されたのです。
本物の太陽は、ずっと力強く、おどろおどろしげに恐ろしく、古めかしい“憂国の士”の思いなどは、ひねりつぶすかのように圧倒してしまうのです。それこそが、「まことの日」の姿でした。
それは、“樺太開発”の国策に煽られ、その尖兵となって外地へ渡った植民者たちの裏切られた思いを象徴していると、ギトンは考えます☆
この作品を、そのように解する根拠は、2つあります。
☆(注) もちろん、1923年のサハリン旅行の段階で、賢治がそこまで考えていたわけではありません。しかし、この文語詩が書かれた晩年には、日本の“対外進出”に対して、(政治的社会的な批判ではなく、詩人の感覚的なものですが)強い疑いを持つようになっていたと考えます。
まず、ひとつは、この詩に現れた「朱金」「古金」という語です。
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