ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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サハリン: ポヤソク地狭(ジュダンコ・リッジ)とオホーツク海





    【71】 宗谷(二)


7.9.1


《初版本》では、8月7日付の「鈴谷平原」の次は、8月11日付けの「噴火湾(ノクターン)」となっています。

この間、作者は、稚泊連絡船で宗谷海峡を渡り、列車で北海道を縦断しているのですが、往路の「駒ヶ岳」「旭川」のようなスケッチ詩篇は、残されていません。

帰路には、疲労で詩作どころではなかったのでしょうか?w

量は少ないながら、やはり手帳などにスケッチはしていたと、ギトンは思うのです。というのは、後の年代のものと思われる詩草稿群の中に、この1923年のサハリン旅行の帰路と思われる詩が幾つかあるからです。それらは、スケッチメモのままになっていたのを、作者は、何年かたってから、詩草稿にまとめたのではないかと思います:7.1.6 日程の推定(帰路) 7.1.1 【71】〜【73】について

最初に取り上げる「宗谷(二)」は、1931年ころの作成と思われる文語詩で☆、赤インクの(了)字★が記され、没後に、『文語詩未定稿』綴に綴じこまれていました。

☆(注) 黄罫詩稿用紙(22,22)に書き下ろされており、もとになる口語詩やメモは発見されていません。この用紙の使用時期、および文語詩稿全体の作成のピークは、1931年以降と推定されます:杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』,1993,蒼丘書林,pp.235,241.

★(注) ○の中に「了」。1932年ころに、文語詩稿の一部について、いったん推敲完了を認めて記したと思われる印。

しかし、内容は、船の甲板から水平線の日の出を望んだ情景であり、第2連に:

「はだれに暗く緑する
 宗谷岬のたゞずみと
 北はま蒼にうち睡る
 サガレン島の東尾や」

とありますから、宗谷海峡を明方に渡航する旅のスケッチがもとになっていると考えられます。「宗谷岬」は「はだれに〔≒まだらに〕暗く緑する」とあって、近景であるのに対し、「サガレン島」は「ま蒼にうち睡る」とあって遠景ですから、宗谷岬・稚内に近づいた地点と見られます。

宮澤賢治の経歴から、そのような旅の情景は、1923年8月のサハリン旅行の帰路(8月8日朝)以外考えられないので、この時のスケッチ(あるいは記憶)がもとになっていると推定できるわけです。

なお、題名は、宮沢賢治の原稿では「宗谷」ですが、同じ題名の他の文語詩と区別するために、「宗谷(二)」と呼び慣わしています。
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