ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.8.13


. 春と修羅・初版本

38  (こんどは風が
39   みんなのがやがやしたはなし聲にきこえ
40   うしろの遠い山の下からは
41   好摩の冬の青ぞらから落ちてきたやうな
42   すきとほつた大きなせきばらひがする
43   これはサガレンの古くからの誰かだ)

「みんなのがやがやしたはなし聲」とは、故郷の親しい人々と考えることもできるでしょう。すぐあとで、岩手県の「好摩」が出てくるので、そうしたつながりもありそうです。

しかし、ギトンは、それだけではないと思います。
宮沢賢治がしばしば使う「みんな」という言葉は、たとえば、両親や妹たちが言う「みんな」と同じだろうか‥、ということを、ギトンは、以前から気になって考えています。

たとえば、「青森挽歌」で:

246 《みんなむかしからのきやうだいなのだがら
247  けつしてひとりをいのつてはいけない》
248ああ わたくしはけつしてさうしませんでした

と言うとき、この「みんな」は、生きとし生けるものすべてのことであるはずです。

【第3章】「小岩井農場・パート9」では:

59  ちいさな自分を劃ることのできない
60 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
61もしも正しいねがひに燃えて
62じぶんとひとと萬象といつしよに
63至上福しにいたらうとする

↑ここでは、「みんな」という言葉は使われていませんが、ここに盛られている思想は、「青森挽歌」の↑上の引用箇所を、別の表現で述べたものと言えます。
そして、「ひとと萬象といつしよに」は、単に、《この世界》の生き物だけでなく、賢治の場合には、《異界》に棲むさまざまな存在をも含んでいると考えなければなりません。なぜなら、「この不可思議な大きな心象宙宇のなかで」と言っているからです。

このように考えてみると、「鈴谷平原」の「みんな」も、《異界》の存在まで含んだ「みんな」なのではないか?‥そう考えれば、岩手県から約1000キロメートル離れた★サハリンの原野の風の中から「みんな」の話し声が聞こえてくるのは、むしろ当然のことです。

★(注) 盛岡〜ユジノサハリンスク間は、直線距離では約850kmですが、鉄道・連絡船のルート距離では、1000kmを超えます。

つまり、「がやがやしたはなし聲」とは、ひと気の無いサハリンの土地の奥から響いてくる《異界》の存在の声と言ってよいのではないでしょうか?
それは、リスや、イソシギや、波打ち際の羽虫を使いとする精霊かもしれませんし、「犬神」のような化け物かもしれません。


鈴谷岳(チェーホフ山)頂の高山植物(ベリー)
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