ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.8.12


. 春と修羅・初版本

32こんやはもう標本をいつぱいもつて
33わたくしは宗谷海峽をわたる
34だから風の音が汽車のやうだ

「標本をいつぱいもつて」と言っていますから、“鈴谷平原”でも植物などの採集をしたのでしょう。

『サガレンと八月』に:

「『おれは内地の農林学校の助手だよ、だから標本を集めに来たんだい。』〔…〕

 〔…〕そしたら丁度あしもとの砂に小さな白い貝殻に円い小さな孔があいて落ちてゐるのを見ました。つめたがいにやられたのだな朝からこんないい標本がとれるならひるすぎは十字狐
だってとれるにちがいないと私は思ひながらそれを拾って雑嚢(ざつのう)に入れたのでした。」

☆(注) 「十字狐」:ふつうの狐(アカギツネ)ですが、約30%の個体は、毛に黒の模様があり、肩と体側に縞、背に十字形が現れるので、“十字ぎつね”と言うそうです。

とありますから、栄浜でも、採集をしたのは間違えないようです。

ただ、ちょっと引っかかるのは、栄浜は、「オホーツク挽歌」に花の名前もいろいろ出てきましたし、同定に困っているようすもうかがわれました。

しかし、「鈴谷平原」には、草花の名前があまり出て来ないのです。遠景のヤナギランくらいです。

もう同定はあきらめて、ひたすら採集だけしていたのでしょうか?
あるいは、8月7日という時期は、内地の山岳では、もう高山植物の盛りを過ぎています。高山の夏は、ほんとうに短いのです。サハリンでも同じなのかもしれません。

さきほど、31行目で「たしかサワシギの發動機だ」と書いていましたが、岩手で見馴れた鳴き声や姿を見て、郷愁を掻き立てられたにちがいありません。

今夜、大泊を発つ復路の旅を想い、「風の音が汽車のやうだ」と言っています。

35流れるものは二条の茶
36蛇ではなくて一ぴきの栗鼠[りす]
37いぶかしさうにこつちをみる

2匹の茶色の蛇のように流れて来たものは、「一ぴきの栗鼠」の背模様でした。
立ち止まって、「いぶかしさうに」作者のほうを振り返って見てから、走り去ってしまいます。

その「いぶかしさう」なしぐさに、作者は、《輪廻》の不思議を見ます★

★(注) ここも、リスを、亡きトシの転生、あるいは(もう少し科学的に)賢治に亡きトシを思い出させた光景と見なす読み方が多いのですが、ギトンは、そこにはひとつの留保がなければならないと思います。6.1.13『歎異抄』←こちらに書いたように、大乗仏教では、あらゆる生き物が、いつかの世では深い縁で繋がれているのであって、その縁が触れ合ったときに、いつも特定の肉親だけを想定するのは、不信心である前に、非論理的なのです。宮澤賢治は、このことを、意識しすぎるほど意識していましたから、サハリン旅行のこの段階で、作者がそうとは言わないのに、“おまえはまだトシのことばかり考えてゐるのだらう”などと決めつけるのは、あまりにも失礼なことです。

私たちも日常、野良猫や、よその犬、あるいは、道端に出てきた野鳥と出会った時に、同様の体験をしていないでしょうか?

リスは、サハリン島の作者の“友人たち”の代表として、別れの挨拶に出て来たように思われます。

ちなみに、【第5章】「栗鼠と色鉛筆」にも、似た場面がありましたが(⇒5.5.2「栗鼠と色鉛筆」)、そちらでは、出て来たリスは、「“秋の妖精”、あるいは“森の神さま”のよう」で、その褐色〜橙色の尾は、「秋の木々の色を予告してい」ると解しました。
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