ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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《S》 日沈まぬ浜と藍銅の波



【63】 青森挽歌





7.1.1


. 春と修羅・初版本
第7章「オホーツク挽歌」は、1923年7月31日から8月12日(推定)まで、宮澤賢治が、当時日本領だった樺太(サハリン)南部へ旅行した途次の詩作です。

『春と修羅』《初版本》に収録されている作品は、「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「樺太鉄道」「鈴谷平原」「噴火湾(ノクターン)」の5篇ですが、
収録されなかった詩草稿4篇と、『春と修羅・第3集』『文語詩稿』に収められている・この旅路での取材と思われる詩3編も、いっしょに検討したいと思います。

各詩篇は、《初版本》に収録されたものも、収録されなかったものも区別なく、描かれた情景(取材の日時)の時系列で並べて、【 】番号を振ってあります。

第7章の目次から来た方は、

「【71】 宗谷(二) ………… ………………
 【72】 宗谷(一) ………… ………………」

の順序が逆になっているので、変に思われたかもしれません。この2篇の文語詩は、作者は「宗谷」という同じ題名を付けていたのでして、「(一)」「(二)」は、あとから便宜上編集者がつけたものです。時間の順序では、「宗谷(二)」のほうが先になるのです。

「【73】 札幌市 …………… (1927.3.28)」

は、『春と修羅・第3集』(別名『詩ノート』)収録の一篇ですが、該当の節で考証するように、この1923年の樺太旅行中の取材と推定されるので、ここに収めました。

なお、《初版本》第8章の「雲とはんのき」には、小樽の《手宮洞窟》などに関係するフレーズがあり、この旅行と関連があると思われますが、これについても、「【73】札幌市」の節で扱います。

さて、1923年当時までの樺太(サハリン島)の沿革、及び賢治の樺太旅行について、まず概要を説明しておきたいと思います。

サハリン島は、北海道の北にある南北に細長い島です。地図帳で見ると平らに見えますが、じっさいに行ってみると起伏の多い地形です。なだらかな山地が面積の約70%を占めていて、とくに中部・南部には、1000メートル・クラスの山もいくつかあります。

「サハリン: Sakhalin」(「サガレン: Saghalien」とも表記)という名前は、満州語に由来し、「サハリヤン・ウラ・アンガ・ハタ: sahaliyan ula angga hada」:“黒竜江(アムール川)の対岸にある島”の略称だそうです。「サハリヤン」は満州語で“黒”、「サハリヤン・ウラ」は“黒い川”つまり黒竜江を指します☆。なお、「アムール」はモンゴル語由来だそうです。

☆(注) これは、1709年、清朝の版図測量のためにアムール流域を調査したイエズス会士が報告しているものですが、その報告によれば、「大陸の住民は、さまざまな名称でこの島を呼んでいるが、『サガリエン・アンガ・バタ』が最もふつうの呼び方である。the mainlanders used a variety of names to refer to the island, but Saghalien anga bata, i.e. "the Island [at] the mouth of the Black River" was the most common one.」(英語版Wikipedia)。なお、日本語版ウィキペディアの記述は誤りなので要注意!

しかし、中国では、この島を古く(唐代)から「窟説(くつえつ)」「屈設」「苦夷」「庫葉」などと呼んでおり、これらはみな、ほぼ同じ発音を示します。現在は「庫頁[kuye]島」と表記しています。
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