ゆらぐ蜉蝣文字
□第7章 オホーツク挽歌
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7.6.30
. 春と修羅・初版本
78ここから今朝舟が滑つて行つたのだ
79砂に刻まれたその船底の痕と
80巨きな横の台木のくぼみ
81それはひとつの曲つた十字架だ
82幾本かの小さな木片で
83HELL と書きそれを LOVE となほし
84ひとつの十字架をたてることは
85よくたれでもがやる技術なので
86とし子がそれをならべたとき
87わたくしはつめたくわらつた
砂浜に刻まれたいびつな十字架の形を見た時、賢治は何を思ったのでしょうか?
上の詩句で、ギトンは以前からずっと、どうしても分からないことがあります。82-84行ですが、この並べ替え、ほんとうに出来るのでしょうか??‥
ギトンには、どうしてもできません。
L V E + だけ作ると、あと1本しか残っていないのです。これでは、
L I V E + にしかなりません。。。
棒を増やさないで、L O V E + にできるという方がいたら、ぜひ教えていただきたいのです‥☆
☆(注) 解答を考えてみました:⇒9.3.7 《補論》砂の十字架
それで、以下の推論は、もしかしたら違うのかもしれませんが、いま、L O V E + にするには3本たりないという前提で話を進めます。
このナゾナゾ、じっさいに賢治とトシが、中学生時代とかに遊んだと考えることもできるかもしれませんが、そうだとしても、その並べ替え遊びは、
H E L L → L I V E +
だったと思うのです。これをあえて、「それを LOVE となほし」と書いたのは、そこに作者賢治の意図があるからだと考えます。
HELL とは地獄です。作者は、砂浜に残された“いびつな十字架”を見て、そこに:
H E L L → L O V E +
地獄 → 愛 + 十字架
というメッセージを読み取ったのだと思います。
これを、
「十字架によって、地獄は愛に変わる。」
と読んでみたら、どうでしょうか?
イエスが十字架にかかって、人間の罪をあがなってくれたおかげで、そのことを信じる者にとっては、罪深い行ないが地獄の苦しみによって報いられることはなく、キリストの愛によって救われるのです。
仏教の因果応報にとらわれていた賢治の前に、十字架の啓示の光が差したと言ってもよいのではないでしょうか?
そこから、さらにキリスト教的に言えば、おぞましい欲望を持ち、“異常な”性欲に身をゆだね、目くるめく《異界》を幻視したとしても、それによって必然的に(因果的に)“修羅界”に堕ちてゆく、堕天使の運命をたどる、と決まるわけではないでしょう。前nのトシ『自省録』からの引用にあったように、それらはみな“神の恩寵”によって与えられた特別な能力なのかもしれず、いずれにせよ、結果いかんは“絶対者”の手のうちにあって、人知の及ぶ領域ではなく、人間には、憶測も不平も許されないからです。
“絶対者”の正しい意志を信じることだけが、人間の為しうることです。
もちろん、↑これはあくまでも、キリスト教的に考えたらそうなるだろう(しかも、それが唯一のキリスト教的考え方というわけでもありません)ということで、賢治がそう考えたということではありません。
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