ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.15


. 春と修羅・初版本

46(おヽ(オー)おまへ(ヅウ) せわしい(アイリーガー)みちづれよ(ゲゼルレ)
47 どうかここから(アイレドツホニヒト)急いで(フオン)去らないでくれ(デヤ ステルレ)
48《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》
49 いきなりそんな惡い叫びを
50 投げつけるのはいつたいたれだ
51 けれども尋常一年生だ
52 夜中を過ぎたいまごろに
53 こんなにぱつちり眼をあくのは
54 ドイツの尋常一年生だ)

次に問題になるのは、「《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》」、そして、49行目の「そんな惡い叫び」とは、「(おヽ(オー)おまへ(ヅウ) ‥」のことなのか?それとも、「《尋常一年生‥」のほうなのか?

「尋常一年生」は、小学校1年生と同じです。1886年から1941年まで、日本では小学校を“尋常小学校”“高等小学校”の2段階に分けていました。“尋常小学校”は、1907年以後は就業年限6年、“高等小学校”は2年でした。

48行目の「尋常一年生 ‥」には二重カッコが付いていますが、46-54行目全体にカッコがついていて、その中にまたカッコ書きを入れたから二重になっているのかもしれません。
そうすると、49行目は46-47行目からの続きです。

したがって、文脈の流れで読めば、「そんな悪い叫び」は、48行目の二重括弧書きになりそうです★

★(注) 49-50行は、【印刷用原稿】の最初の形では:「そんないやなひやかしの声を/いきなりだすものはいったいたれだ」となっていました。たしかに、「《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》」は、「おヽおまへ‥」に対する「ひやかし」と読めます。

ところで、「ドイツの尋常一年生」という「悪い叫び」の意味ですが、「オー ヅウ‥」の文句は、賢治らが使っていた教科書の一節ですから、やさしいドイツ語文のはずです。もしドイツの学校の教科書に載るとしたら、おそらく小学校の何学年かになるでしょう。

そんなドイツ語の文句を読んでいる声が聞こえたら、「ドイツの尋常一年生が読んでいる」と思わないでしょうか?

46-47行目は、ルビがドイツ語なのですから、読者がここを音読するときには、ルビのドイツ語のほうを読むと、作者は考えていることになります。

それにしても、46-47行目にしても現れ方は唐突です。その前の詩行とはつながりなく、いきなり現れています。地の文から繋がらないとしたら、これもやはり、どこかから聞こえて来たつぶやきなのではないでしょうか?

誰がつぶやいているのでしょうか?‥

ドイツ語のつぶやきなのですから、ふつうに考えたら、それはドイツ人がつぶやいていることにならないでしょうか?そして、この場にいる“ドイツ人”は、ただひとりです‥

そうです!「ドイツの尋常一年生」です!

51 けれども尋常一年生だ
52 夜中を過ぎたいまごろに
53 こんなにぱつちり眼をあくのは
54 ドイツの尋常一年生だ)

その人物は、よく見てみると、やはり幼くて、「尋常一年生」くらいの子供なのです。そして、夜半過ぎのこの時刻に、「ぱつちり眼をあ」いているのです。

「ドイツの尋常一年生」と名指された・この子供(?)は、たしかに、この時、賢治の《心象》には現れたのです‥いや、それどころか、じっさいに車内にいたのだと、ギトンは考えます。



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