ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
156ページ/250ページ


7.6.14


. 春と修羅・初版本

36波の來たあとの白い細い線に
37小さな蚊が三疋さまよひ
38またほのぼのと吹きとばされ
39貝殻のいぢらしくも白いかけら
40萓草の青い花軸が半分砂に埋もれ
41波はよせるし砂を巻くし

淡く、たよりない風景。。。 退いた波の白い跡が不安を誘いますが、

波打ち際にさまよう蚊の姿に魅せられる作者は、小さな頼りない生命にもいつくしみを感じる優しい感情を持っています。じっさい、賢治には、ごみといっしょに吹き寄せられた昆虫の羽根などに強い関心を寄せる詩句が、ときどき見られるのです。

ここでも、きれいに洗われた貝殻のかけらや、ちぎれた「萓草」の花軸に視線を集中しています。それらの形は、黒く濡れた砂浜を背景にして浮き出ているのです。

「花軸」は、花をつける枝・茎。ここでは、しおれた花や小さな蕾のついた茎だと思います。

「萓草」は、「わすれぐさ」と読みます。ユリのなかま。黄色〜橙赤色の花をつける野草ですが、ノカンゾウ、ヤブカンゾウ、ハマカンゾウの3種があります:画像ファイル:萓草

ヤブカンゾウは八重咲きなので、見た感じが違いますが、ほかの2種は百合の花の形です。ノカンゾウは黄色に近く、ハマカンゾウは、海岸に生え、赤に近い濃い色が特徴です。
ここでは、ハマカンゾウか、それに似たサハリンの種類と思われます。

気がつくと荷馬車が去って行った轍の跡だけが残っていて青年の姿はなく、虚しさだけが感じられる情景描写、そして「わすれぐさ」‥‥

「波はよせるし砂を巻くし」も、なにか疲れたような倦怠感をかもし出しています。

ところで、さまよっていた蚊は3疋でしたが☆、あとのほう(第3の“パート”)にも「三羽の鳥」が出てきます。

☆(注) 「蚊が三疋さまよひ」は、山梨、鳥取、アメリカと、ほうぼうに散ってしまい、それぞれに迷いつつ生きている《アザリア》の3人の仲間を指しているともとれます。「小岩井農場・パート9」に現れた“3人のすあしの人”──ユリア、ペムペル、ツィーゲル──も、《アザリア》の3人を指していました。

賢治作品にときどき現れる“3疋”“3羽”“3人”を、秘数術で解き明かそうとする人もいますが、…そこまで深読みしなくとも、作者にとって“3”という数が、心理的な特定の意味を持っていたと考えることは可能でしょう。

賢治は、“3疋”のものに、自分とつながりのある生命を予感しているのだと思います。

. 春と修羅・初版本

042白い片岩類の小砂利に倒れ
043波できれいにみがかれた
044ひときれの貝殻を口に含み
045わたくしはしばらくねむらうとおもふ

2行分の余白(41-42行目)が示す時間経過のあと、作者はわれに返って、砂の上でにしばらく眠ることにします。

「白い片岩類の小砂利」:「片岩」は、結晶片岩ともいい、広域変成岩のひとつで、さまざまな種類があります。東京の近くでは、長瀞の河原の岩や、“三波石”が、緑色片岩です。
地底でプレートによる‘横ずれ’の圧力を受けて出来るので、薄く板状に割れる性質(片理)があり、小石になっていても区別がつきます:画像ファイル:片岩

「ひときれの貝殻を口に含み」は、香取直一氏によれば、「唅(かん)の儀礼を模したもの」であり、賢治の仮眠は自らを死者に擬して、夢の中でトシとの通信を図ろうとしたと推定されると言います☆

☆(注) 鈴木健司,op.cit.,p.184. 鈴木氏も、はたして「『唅の儀礼を模したもの』であるかどうかはあくまで仮説に留まる」としています。
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ