ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.6.13


この35行目までは、@字下げなし、A3字下げ( )囲み、B2字下げ、C4字下げ( )囲み、D1字下げ、E3字下げ、という・じつに6種類の行が次々に現れます。このことに注目した秋枝美保氏は、「意識の分裂と動揺の様が伺える。」と指摘しています★:

★(注) 『宮沢賢治 北方への志向』,pp.227,229.

「地の言葉は風景を描写するが、その風景は、『たのしく激しいめまぐるしさ』で詩人を圧倒する。その風景は、『妖精のしわざ』としか思えないとあり、詩人の意識が、妖精との交感の世界へ引き込まれていくのを示している。その後、男の乗っていた馬車の轍は淡くなって遠ざかり、詩人は幻想の世界に埋没していくようである。」

しかし、ギトンには、「意識の分裂と動揺」よりも、むしろ、しずかで美しい言葉によって、激しくも目まぐるしい体験を描いているように思えるのです。

さまざまな字下げ行の交替は、第2章の「蠕蟲舞手」や、第3章の「小岩井農場・パート9」にも見られましたが、ギトンは、基本的には、オーケストラの音楽のような旋律の輻湊を表すものだと考えます。
それが、「小岩井農場・パート9」や、この第7章では「青森挽歌」の場合には、作者のなかのさまざまな意識の対立・葛藤を表現する場合もあるのだと思います。

しかし、ここで、メロディーの輻湊が表しているのは、意識の分裂よりも、文字通り交響楽としての重層的な響きなのだと思います。ひとつひとつが独立した意識として対立しあうよりも、複数の声部が重なって、全体として、広がりのある重厚な《心象》世界を織り成しているのではないでしょうか。

36行目以降に字下げの変化がなくなるのは、「意識の分裂」が収束したためではなく、オーケストレーションのような重厚で躍動的な世界から、静かに歌い奏でる単旋律の澄明な世界に移行したのだと思います。

. 春と修羅・初版本

36波の來たあとの白い細い線に
37小さな蚊が三疋さまよひ
38またほのぼのと吹きとばされ
39貝殻のいぢらしくも白いかけら
40萓草の青い花軸が半分砂に埋もれ
41波はよせるし砂を巻くし


42白い片岩類の小砂利に倒れ
43波できれいにみがかれた
44ひときれの貝殻を口に含み
45わたくしはしばらくねむらうとおもふ

41-42行目に2行分の空白があるのは、ここに時間の経過があるのだと思います。

このあと、59-60行目にも2行分の空白の空白があります。
「オホーツク挽歌」は、2か所の空白によって、3つの部分に分かれているわけです。

41行目までの最初の部分には、「若者」との出会い、砂浜での再会、そして“妖精体験”と、それが終ったあとの“寂かな哀しみ”が書かれていました。

42行目から59行目までの《中間部》では、作者は疲れを感じ、白い砂浜に寝そべって「しばらくねむらうとおもふ」──仮眠(うたたね)をします。
《中間部》には、この仮眠しか書かれていないので、行数としては、前後の2つの“パート”に比べて、たいへん短いのですが、この仮眠にこそ重要なことが秘められているとして、各論者によって注目されているところです。
「ひときれの貝殻を口に含み」を、降霊術の儀式だと考える人もいるほどです。


しかし、それについては、あとで述べます。
ギトンも、この仮眠の間に作者が夢を見たことは、まちがいないと思います。それは、賢治にとって忌まわしい悪夢なのですが、トシの“霊”に護られたおかげで、悪夢に引き込まれることはなかった──予告して言ってしまうと、ざっとそのような解釈を考えています。詳しくは、のちほど‥
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