ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.6.12


さて、「オホーツク挽歌」に戻りますと、

. 春と修羅・初版本

21朝顔よりはむしろ牡丹(ピオネア)のやうにみえる
22おほきなはまばらの花だ
23まつ赤な朝のはまなすの花です
24 ああこれらのするどい花のにほひは
25 もうどうしても 妖精のしわざだ
26 無數の藍いろの蝶をもたらし
27 またちいさな黄金の槍の穂
28 軟玉の花瓶や青い簾

と、ピオネアのようなハマナスの匂いに酔いしれて、「妖精」の魔法にかけられたように入り込んだ夢幻の世界は、「密教風の誘惑」よりもファンタジックに昇華されていますが、やはり性欲に導かれて「堕ちて行」った世界と言うべきです。

つづいて賢治は:

29それにあんまり雲がひかるので
30たのしく激しいめまぐるしさ

と書いています。字下げのない行に戻って、理性的な意識も、目まぐるしい体験に巻き込まれて、眩暈をおぼえていることを認めています。

いま作者は、草花や花木のしげみに横たわって、空を向いているのでしょうか。

ところが、その直後には、一転して、悲しみを誘うような情景が描かれます:

31  馬のひづめの痕が二つづつ
32  ぬれて寂まつた褐砂の上についてゐる
33  もちろん馬だけ行つたのではない
34  広い荷馬車のわだちは
35  こんなに淡いひとつづり

荷馬車の若者が去って行った痕だけが残されている砂浜のようすを描いています。

「もちろん馬だけ行つたのではない」という暗示的な言い方をしているのが、かえって、その間に、──尻切れで終っている18行目の「わたくしを親切なよこ目でみて」から、ここまでの間に──なにごとかが隠されている印象を与えます。

30行目までの目くるめく“妖精体験”は、単に花の匂いに酔って美しいけしきを見ていただけなのでしょうか。
もちろん、そう解釈することもできます。作者は、そうとしか書いていないからです。

しかし、ギトンは、作者と「若者」との間に、「たのしく激しいめまぐるしさ」をもたらすような性的快感の体験──はっきり言ってしまえば、“真夏の無人海岸”にふさわしい衝動的な性体験があったと想像します。そう考えたほうが、31行目以下の「ぬれて寂まつた褐砂」のようなさびしさ、「こんなに淡いひとつづり」の仄かな悲しみが、よく分かるからです。

「(その小さなレンズ
〔「若者」の眼──ギトン注〕には
  たしか樺太の白い雲もうつつてゐる)」

という19-20行目のカッコ書きは、いかにもさりげなく、青年どうしの愛の交歓のきっかけを表現していないでしょうか?

「もちろん馬だけ行つたのではない」──荷馬車だけが行ったのではなく、交歓を終えた「若者」が、何ごともなかったように、しずかに去って行ったのです。

しかし、去って行くところは描かれず、去った後のわだちと馬のひづめの痕が、褐色の砂の上に淡く、寂しく残されている光景だけが描かれます。

波がその上を洗って濡らし、また退いていきます。
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