ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.6.11


鈴木氏が、この詩を解説して、

「賢治は決して《性欲》そのものの存在を否定しているわけではない。ただ、《性欲》の在り方にもぞれぞれの段階があり、現在自分の感じている《性欲》は本来的な《性欲》の在り方とは異なったものだ、という認識を賢治はもっているのである。そして、その上で賢治は、現在自分の感じている《性欲》の在り方を『密教風』という語を用いて表現したのである。」
(op.cit.,pp.226-227.)

と性格づけておられることは重要です。
賢治が、“本来的とは異なる自分の《性欲》の在り方”──「密教風」の《性欲》──と考えていたのは、鈴木氏によれば、たとえば、↓つぎのような快感です:

「真夏の畑に労働をしてしばらく桑を杖に疲れを休めてゐると、微風がさわやかに自分の皮膚を吹き撫でる。すると乳首のあたりに微かに心良い快感をおぼえるといふことも一つの性欲だといふのです。」

(関登久也『宮澤賢治素描』:鈴木健司,op.cit,p.215 所引)






これは、賢治とともに『国柱会』に入会した従兄弟が語る話なので、表現は非常に穏やかにされていますが、賢治が“性欲”だと言って語ったということは、“微かに心良い”ではなく、眩暈がしてのぼせるほどの快感と受け取ってよいはずです。

真夏の、畑の草いきれの真っ只中で、くたくたになるまで身体を動かした後で、風が裸の身体をなでると、乳首に快感をおぼえるというのです。それ自体は誰でもが感ずる性感覚ですが、‥快感をおぼえる場所が乳首という点に、注目したいのです。

個人差はあると思いますが、男性が、乳首の触覚から性欲を感じるのは、相当に性体験を重ねてからではないかと思います。しかも、単なる生殖のための“正常”な性交だけ──賢治の時代には、夫婦間でも、そんな場合が多かったでしょう──ではなく、男性が相手に乳首を玩ばれるような性行為でなければなりません。

最近では、異性愛者でも“ビーチクが感じる男”は少なくないのですが、それは、女性が性行為を楽しむようになったからでして、‥賢治の時代には、例外的なことだったと思います。
同性愛の経験を重ねていれば、乳首が感じるのももっともなことです。

“本来的とは異なる《性欲》の在り方”とは、同性愛者の性欲、あるいは、異性愛者としたら“変態”に属するような性欲──ということではないかと思います。

宮澤賢治に、“禁欲的”と見られやすい言動が多く、また、“禁欲的”だと、人から思われ、自らも認める生活面があったことは、否定できません。しかし、それは、自分の性欲は、他の人たちと違うかもしれない‥少なくとも、世間で“本来的”とされるものとは違う──という自覚に悩んだ結果ではないかと、ギトンは思うのです。

宗教的その他の“禁欲”は、あとから↑それを正当化し理由付ける“理屈”にすぎなかったと考えるのです。
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