(関登久也『宮澤賢治素描』:鈴木健司,op.cit,p.215 所引)
これは、賢治とともに『国柱会』に入会した従兄弟が語る話なので、表現は非常に穏やかにされていますが、賢治が“性欲”だと言って語ったということは、“微かに心良い”ではなく、眩暈がしてのぼせるほどの快感と受け取ってよいはずです。
真夏の、畑の草いきれの真っ只中で、くたくたになるまで身体を動かした後で、風が裸の身体をなでると、乳首に快感をおぼえるというのです。それ自体は誰でもが感ずる性感覚ですが、‥快感をおぼえる場所が乳首という点に、注目したいのです。
個人差はあると思いますが、男性が、乳首の触覚から性欲を感じるのは、相当に性体験を重ねてからではないかと思います。しかも、単なる生殖のための“正常”な性交だけ──賢治の時代には、夫婦間でも、そんな場合が多かったでしょう──ではなく、男性が相手に乳首を玩ばれるような性行為でなければなりません。
最近では、異性愛者でも“ビーチクが感じる男”は少なくないのですが、それは、女性が性行為を楽しむようになったからでして、‥賢治の時代には、例外的なことだったと思います。
同性愛の経験を重ねていれば、乳首が感じるのももっともなことです。
“本来的とは異なる《性欲》の在り方”とは、同性愛者の性欲、あるいは、異性愛者としたら“変態”に属するような性欲──ということではないかと思います。
宮澤賢治に、“禁欲的”と見られやすい言動が多く、また、“禁欲的”だと、人から思われ、自らも認める生活面があったことは、否定できません。しかし、それは、自分の性欲は、他の人たちと違うかもしれない‥少なくとも、世間で“本来的”とされるものとは違う──という自覚に悩んだ結果ではないかと、ギトンは思うのです。
宗教的その他の“禁欲”は、あとから↑それを正当化し理由付ける“理屈”にすぎなかったと考えるのです。
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