ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.14


ところで、さきほど、前のnの(注)に書いたのですが、賢治が晩年に使っていた『三原三部手帳』☆と『兄妹像手帳』★には、このドイツ語文句の書き込みがあって、‥手帳の内容とは直接関係のない意味不明の書き込みで、落書きに見えますが‥とにかく、賢治は、この文句をずっと覚えていて、しかも、ひじょうに正確に覚えているのです!

☆(注) 『三原三部手帳』は、宮澤賢治が1928年6月12日以降、おそらく同月中にのみ使用していた手帳の断冊で、連作詩『三原三部』の《初期形》メモが記されています。連作詩メモ以外の記載は、"O, du, ..."のドイツ語文句だけで、ほかに落書き等はありません。B11頁の上部欄外に:「O, du, eiliger Geselle!」,B9頁の上部欄外に:「Eile O, du, eiliger」と、どちらも薄い鉛筆書きで書かれています。

★(注) 手帳のとびらに、男の子と女の子の絵(シルエット)が空押しで入っているので、全集編集者が『兄妹像手帳』と呼びならわしていますが、兄と妹なのかどうかは分かりません。男の子と女の子は縦に並んで歩いている、チルチル・ミチルのような意匠。内容は、詩の下書きメモ断片が多数、『風野又三郎』の構想メモ(日ごと)と下書き断片、法華経の断片、東北砕石工場関係のメモ、創作方針のメモ、その他のメモです。落書き風の記載も何箇所か。詩断片の中に、「二月丗一日 ◎妹は哭き/兄は小松の梢を/見き〔…〕今日の/この日に/わざわいあれ」というのがあります。これ以外に「兄妹」をうかがわせる記載はなく、トシと関係があるとは直ちに言えません。なお、賢治の妹は3人いました。使用時期は、1931年の7月以前から9月までと推定されています(『新校本全集』第13巻(上),校異篇,p.98)。

『兄妹像手帳』の記入は、量が多いので、↓以下に引用してみたいと思います:

O, du, eiliger / Geselle, / Eile doch / nicht / von / der / Stelle
 O, du / eilig
 O, du / eiliger / Geselle / Eile doch / nicht / O, du, / O, du,

  ※ 下線部は、ローマ字でなくフラクトゥール(ドイツ文字)で書かれている。

  【仮訳】

〔おゝ、おまへ、せわしい/みちづれよ/どうか/こ/こ/から/急いで去らないでくれ
 おゝ、おまへ/せわし
 おゝ、おまへ/せわしい/みちづれよ/急が/ないでくれ/おゝ、おまへ/おゝ、おまへ〕


  


これは、手帳の表紙裏(見返し)に書かれています。

"O, du"(おゝ、おまえ) を、なんども繰り返していますね。

誰かとの別れが、よほどトラウマになっているのでしょうか?

その点から考えれば、亡きトシか、保阪嘉内のどちらかに関係があるのでしょうか。

しかし、この2つの手帳は、嘉内と東京で“訣別(?)”か何かあった1921年、トシの死亡した1922年から6年〜10年たってからのもので、あいだに時間がありすぎるようにも思います。。。

ただ、遺されて公表されている賢治の手帳は、1927年以後のものだけでして、それ以前の手帳は現存していません。ですから、失われた1921年〜1926年の手帳には、折りに触れて、"O, du, ..." の書き込みがあったと想像してみることは可能です。

そういうわけで、この“落書き”の意味も、軽々に決めつけないほうがよいと思います。
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