ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.6.7


. 春と修羅・初版本

013またこの若者のひとのよさは
    〔…〕
018いまわたくしを親切なよこ目でみて
019(その小さなレンズには
020 たしか樺太の白い雲もうつつてゐる)

そこで、もう一度↑本文を見ますと、賢治と同じように“自然の良さ”が解る青年の目には、たしかに、広々とした樺太の空にうかぶ白い雲が、悠々と映っているにちがいありません。

賢治は、この若者とのあいだで、一種ふしぎな共感を得たのだと思います。

ところが‥‥18行目の「よこ目でみて」は、そこで突然、センテンスが途切れてしまい、あとへつづいていないのです。

そして、この青年については、これ以後まったく叙述が無くなってしまい、わずかに31行目以降に:

031馬のひづめの痕が二つづつ
032ぬれて寂まつた褐砂の上についてゐる
033もちろん馬だけ行つたのではない
034広い荷馬車のわだちは
035こんなに淡いひとつづり

とあって、これは、青年の荷馬車が去って行った轍(わだち)かもしれないと思うだけです(それさえ断言はできません。作者は、何も述べようとはしないのですから)。

この青年の突然の“消失”には、理由がありそうです。。。

作者は、この21行目と31行目の間に、何かはっきりとは読者に言いたくないことがあるために、それを仄めかすかのように、こんな書き方をしているのだと、ギトンは考えます。
つまり、ここに、重要なできごとが隠されている可能性があると思うのです。

しかし、これについては、いちばん最後に触れることにしたいと思います。





. 春と修羅・初版本

021朝顔よりはむしろ牡丹(ピオネア)のやうにみえる
022おほきなはまばらの花だ
023まつ赤な朝のはまなすの花です

花の名前がいくつか出ていますが、その考察はなかなか難物です。作者自身にもよく分からないサハリンの植物を記載しようとしているせいもあると思います。

かんたんなほうから先に見ていきますと、
「はまばら」は、「はまなす」のことです。というのは、次のような石川啄木の有名な短歌があるからです:

潮かをる北の浜辺の
砂山のかの浜薔薇よ
今年も咲けるや  
(『一握の砂』)

「浜薔薇」には、「はまなす」というルビが振られています。つまり、ハマナスと読む当て字なのです。
「浜辺の/砂山」に自生するという生態からも、ハマナスに間違えありません。

しかし、辞書を引いても、「はまばら」という言葉はありません。
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