ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.6.6


短歌から拾いますと:

#231 かゞやける
   かれ草丘のふもとにて
   うまやのなかのうすしめりかな。

#232 ゆがみうつり
   馬のひとみにうるむかも
   五月の丘にひらくる戸口 
(歌稿B)[1915.4.]

#255/256a
  本堂の
  高座に島地大等の
  ひとみに映る
  黄なる薄明 
(歌稿B)[1915.4-16.2.]

232番は、その前の231番と合わせて読むと、暗い厩の中で、馬の瞳に、入口と外のけしきが歪んで映っている、ということです。

255/256a番の「島地大等」は、浄土真宗の僧侶で仏教学者。盛岡・願教寺住職で、宮沢賢治が1914年に読んで感動し、不良学生から一転して盛岡高農に主席入学したという『漢和対照 妙法蓮華経』の編者です。
このころの賢治の書信に:

「この旅行
〔1916年3月の関西方面修学旅行──ギトン注〕の終りの頃のたよりなさ淋しさと云つたら仕方ありませんでした。〔…〕胸は踊らず旅労れに鋭くなつた神経には何を見てもはたはたとゆらめいて涙ぐまれました。こんなとき丁度汽車があなたの増田町〔宮城県名取郡──ギトン注〕を通るとき島津大等先生がひよつとうしろの客車から歩いて来られました。仙台の停車場で私は三時間半分睡り又半分泣いてゐました。宅へ帰つてやうやく雪のひかりに平常になつたやうです。昨日大等さんのところへ行つて来ました」
(高橋秀松宛て葉書,1916.4.4.書簡番号[15])

とありますから、賢治はしばしば願教寺に大等を訪問していたのかもしれません。
小野隆祥氏は、255/256a番について、

「賢治が大等に対する熱烈な讃仰を表明したものとは読み取れない。賢治の眼は冷静で彼自身の求道・探究の途上で出会った先行者を大等に見出しただけであろう。」


☆(注) 小野隆祥『宮沢賢治の思索と信仰』,1979,泰流社,pp.72-73.

と述べていますが、また、

「この手紙
〔書簡番号[15]──ギトン注〕の時点では大等が最も頼られ慕われている。」(op.cit.,p.52)

とも述べています。
小野氏によれば、大等は、「本来の仏教は科学であり、その修行は実験であ」るという「科学としての仏教観」を持っており、「唯物論哲学者三枝博音によれば、大等は『唯物論者だ』といわれていた」。

しかし、大等は、仏教界の現状・将来については、絶対化された仏への安易な帰依(題目や念仏)のみが蔓延して、開悟を目指す修行は軽視され、堕落の道をたどっているとして、ひたすらペシミストであったといいます。そのような大等に対して、熱しやすい青年であった賢治は、崇敬の気持ちを持ち得なかっただろうと、小野氏は言うのです★

★(注) op.cit.,pp.32,69-70. なお、島地大等の“科学的・唯物論的仏教観”は、賢治が望むと望まないとに拘らず、彼に大きな影響を与えており、賢治の“ヘッケル博士”への傾倒や、「宗谷挽歌」に現れた仏教への懐疑にまで、永く尾を曳いているものと思われます。

つまり、賢治は、島地大等に対しては、宗教的指導者への崇拝・尊敬というよりも、親しく頼ることのできる先輩に対するような気持で接していたと言えます。

以上をまとめますと、
賢治が、人・動物の目に映るけしきを述べるのは、その相手に対して、同情、哀れみ、親しみなどの‥いわば自分が相手に融合してしまいたい気持を感じているときだ──と言えるのではないかと思います。
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