ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.6.2


上の地図(日本領時代)で見ると、海岸は栄浜の西と東にあります。名勝“樺太十五勝”のひとつ“栄浜海岸”は、東海岸のほうで、こちらは岩浜です:画像ファイル:栄浜(スタロドゥプスコェ)東海岸と西海岸

他方、西海岸は、↑画像ファイルでご覧のとおり遠浅の砂浜でして、“白鳥湖”☆は西海岸のほうにあります。宮沢賢治は、どちらへ行ったのでしょうか?

☆(注) 最近、白鳥湖は、宮沢賢治ゆかりの…ということになっていて、各旅行社は、パック旅行の賢治オプショナルツアーには、かならず白鳥湖を加えますが、この沼が賢治ゆかりだというのは、あくまでミヤケン・ファンの憶測でして、宮沢賢治の書いたものにも、書簡、聞き書きに至るまで、白鳥湖などは全く出て来ません(笑)。しかし、これからギトンのやろうとしている考証は、結論から言うと、賢治は白鳥湖の近くに行き、しかもそこで重要な体験があったことになります(この結論、ギトンとしては不本意なのですが‥)。なお、“西海岸”“東海岸”は、ギトンが仮にそう呼んでいるだけでして、当時も今も、そういう地名があるわけではありません。

作品「オホーツク海岸」を見ますと:

. 春と修羅・初版本

31   馬のひづめの痕が二つづつ
32   ぬれて寂まつた褐砂の上についてゐる
33   もちろん馬だけ行つたのではない
34   広い荷馬車のわだちは
35   こんなに淡いひとつづり
36波の來たあとの白い細い線に
37小さな蚊が三疋さまよひ
38またほのぼのと吹きとばされ
39貝殻のいぢらしくも白いかけら
40萓草の青い花軸が半分砂に埋もれ
41波はよせるし砂を巻くし
   〔原文2行アキ〕
42白い片岩類の小砂利に倒れ
43波できれいにみがかれた
44ひときれの貝殻を口に含み
45わたくしはしばらくねむらうとおもふ

↑こうした部分を見ると、岩浜、あるいは石ころや砂利の浜ではなく、砂浜です。また:

. 春と修羅・初版本

104遠くなつた榮濱の屋根はひらめき
105鳥はただ一羽硝子笛を吹いて
106玉髄の雲に漂つていく
107町やはとばのきららかさ

とあって、栄浜の市街と波止場が遠くに見えるけしきです。波止場は東海岸のほうと思われますから、やはりここは西海岸でしょう。

なお、最近訪れた方(ロシア人バイクライダー?)のブログには、西海岸を "amber beech"(琥珀海岸) と呼んでいるものがありました。もし、賢治も琥珀海岸だと聞いたとしたら、そちらへ行ってみたくなったでしょう。

ところで、賢治が西海岸のほうへ行ったと推定する根拠は、あと2つあります。ひとつは、@“樺太15勝”の栄浜海岸でなくこちらへ向かった動機に関することで、Aもうひとつは、白鳥湖畔にあるアイヌ部落と賢治童話の結びつきに関することです。@は「オホーツク挽歌」の深読み(賢治を西海岸へ連れて来た人がいる!)が必要ですし、Aは、先学の研究成果と、日本領時代のアイヌ部落に関する記事とを、照合する必要があります。どちらも相当の遠回りになりますので、この【68】節のおしまいのほうで扱いたいと思います。


栄浜(Стародубское)西海岸(渡辺芳紀氏)
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