ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
140ページ/250ページ


7.5.26


さて、ここで最後に、先学お二方の解釈を参照したいと思います。

すでにご紹介したように(7.5.5)、鈴木健司氏は、

賢治は、
「妹とし子の転生に関しても、『あいつはどこへ堕ちやうと』というように、悪所(地獄界や餓鬼界)の想定を導かざるを得ない」
(鈴木健司,op.cit.,p.189)

としたうえで、

「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
 私は試みを受けやう。」

という「宗谷挽歌」末尾の2行で、賢治は、

「妹のいる悪所に共に落ちるべく、鬼神たちに向かって、海に落とせ、空に擲げろと宣言したのである。」
(op.cit.,p.191)

と理解しておられます。そして、

「このような賢治の決意は、〔…〕私は、未だ天台・日蓮教学の範疇での苦悩であると考えている。」
(a.a.O.)

として、賢治が、

. 宗谷挽歌

「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
 もしまちがひであったなら
 究竟の幸福にいたらないなら
 いままっすぐにやって来て
 私にそれを知らせて呉れ。」

と書いている「究竟の幸福」とは、「法華経の受持によって出現する浄土」(鈴木氏)を念頭に置いたものであり、

「法華経によりもたらされる浄土(「みんなのほんたうの幸福」)が二人の共通した願いであったからであり、その実現のために、『私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない。』と身業としての法華経的実践(菩薩行)を自分と妹とに課したのである。」

として、

「このような、感動的ですらある『宗谷挽歌』が、〔…〕」
(op.cit.,p.192)

と、この作品を高く評価しておられます。

鈴木氏は、日蓮教学に沿って「宗谷挽歌」を読み込んでおられ、その解釈は、日蓮宗をあまりよく知らないギトンのような者でも引きこまれてしまうほどの感銘を与えます。

しかし、ギトンの結論を言えば、賢治は、この「宗谷挽歌」においては、天台・日蓮教学の“即身成仏”──つまり天台本覚思想☆による“トシの行くえ”問題の解決には至っていなかった。つまり、作品の流れで言えば、「青森挽歌」の終結からは後退して、素朴な《異界を見る者》の《心象》にしたがって思索しているのだと考えます。その結果、『倶舎論』の仏教的世界観の枠組みからも、はみ出し、宗教そのものに──仏教というよりは宗教一般に──対してさえ、懐疑の眼を向けているのだと思います。

☆(注) 田村芳朗・ほか『絶対の真理〈天台〉』,(仏教の思想5),1996,角川文庫,pp.53-54.

ギトンが、なぜそこにこだわるかというと、「宗谷挽歌」は、やはり、(賢治の【清書稿】段階の構想による)“樺太連作詩篇”の中途にあって、作品「オホーツク挽歌」以降に繋がってゆく流れのうちにあると考えているからです。そして、全体として、宮沢賢治の《心象スケッチ》の流れは、仏教的実践よりも、詩的・文芸的な表現活動のほうを向いていると思うのです。
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ