ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.5.25


. 宗谷挽歌

 「あすこに見えるのは燈台ですか。」
 「さうですね。」
 またさっきの男がやって来た。
 私は却ってこの人に物を云って置いた方がいゝ。
 「あすこに見えますのは燈台ですか。」
 「いゝえ、あれは発火信号です。」
 「さうですか。」
 「うしろの方には軍艦も居ますがね、
 あちこち挨拶して出るとこです。」
 「あんなに始終つけて置かないのは、

賢治は、戻って来る船員に、海上の光について尋ねますが、船員は生返事です。船長と違って、不審者にも乗客にも関心がないのでしょう。

「さっきの男」は、れいの・船長らしき赤ひげの男です。

賢治は、ようやく不審がられていることに気づいたのかもしれません。自分から声をかけて話をしようとします。口調が、他の船員に対するよりも丁寧になっています。

「発火信号」は辞書に出てきませんが、“発光信号(flash signal)”という項目がありました:

「光線を利用した信号のこと。無方向性または方向性の光源を点滅させて通信を送る信号で,主としてモールス符号による。昼間艦隊全般への信号は無方向性大光力 (2kW程度) 信号灯により 20km,探照灯式により視界限度付近まで通信可能。」
(ブリタニカ)

グーグル・ブックスを検索すると、「発火信号」でヒットして、やはり軍艦が、他の船や航空機への信号として打ち上げる花火で、モールス信号になっています。花火でなく照明で信号を送る場合は、“灯火信号”と言うようです。

典型的な信号は、「貴船の船籍を問う。目的地と船名を名乗られたし。」といったものです:⇒金子明正『バブルの城』

ここでも、「うしろの方には軍艦も居ますがね」と言っていますから、稚内港沖に停泊中の艦隊から送られて来た信号だと思います。連絡船は不審船ではないので、通信内容は儀礼的なものでしょう。それに対して、こちらは簡単に汽笛で返事しているのです。

さて、原稿は、このあと何枚かが紛失していて、最後の1枚が残っています。それは、次のようなものです:

永久におまへたちは地を這ふがいい。
さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。

これでは、紛失した数枚に何が書いてあったのか、まったく分かりません。そこで、さまざまな憶測を呼ぶのですが、

前の部分の流れで、ふつうに考えれば、“船長”との会話が終ったあと(それによって賢治の“スパイ嫌疑”は晴れて、船員たちは遠ざかる)、船は真暗な海峡の海を航行し、その暗黒の中での《心象》が語られているにちがいないと思います。

「おまへたち」は、その《心象》に現れた《異界》からの何者かでしょう。それらを、作者は、「海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち」と呼んでいるのです。

そうすると、「私は試みを受けやう」も、かならずしも、作者が特別なことを何かしようとしているとか、何か特別なことが起きようとしていると、考える必要はないと思います。単に、“行く手に「鬼神たち」が現れようとも、わたくしの船はサハリンを目指して進んで行くぞ”と宣言しているにすぎないように思われます。。。
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