ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.5.22


栗谷川氏が紹介しているのは、小林秀雄の“神秘”体験なのですが、引用しますと:

「話は、小林がお母さんを亡くした数日後の夕暮のことです。仏壇に供えるローソクがきれていることに気づいて買いに出た小林は、自宅近くの小川のほとりで、今まで見たこともないような大きなみごとな蛍が飛ぶのを見かけます。ふと小林は『おつかさんは、今は蛍になつてゐる』と、ごく自然に思ったというのです。

  《その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかつた。おつかさんが蛍になつたとさへ考へはしなかつた。何も彼も当り前であつた。従つて、当り前だつた事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おつかさんといふ蛍が飛んでゐた、と書く事になる。つまり、童話を書くことになる。》」

この・あとの読みのほうが、具体的にイメージしやすいかもしれません。
賢治は、目の前にいる「若い船員」をトシだと“感じて”いる。もちろん、現実意識を失ってはいませんから、そんなことを口に出して言ったりはしません。
しかし、手帳には、それを前提にして、「若い船員」に、いきなり:

「とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り‥」

と呼びかけるように、書き付けていきます。
「若い船員」のほうは、そんなことにはまったく気づきません☆

☆(注) 同じような“神秘”体験は、東北本線の車中でも有り、「青森挽歌」には、そのスケッチの痕跡が残っていました。すなわち、「ドイツの尋常一年生」です。なお、「青森挽歌」でも、「宗谷挽歌」でも、賢治がトシを“投影”する人物は、少年──男の子です。そこには、同性愛者としての賢治の資質が反映していると、ギトンは考えます。

こうして、賢治のほうから見ると、なんとも歯がゆく、ちぐはぐな“二重の風景”が展開します。

. 宗谷挽歌

 (おまへがこゝへ来ないのは
  タンタジールの扉のためか、
  それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

作者とトシの間には、目に見えない「扉」があって、作者からトシは、少年船員にしか見えず──しかし、それがトシであることは霊感が教えます──、トシ(少年船員)のほうからは、兄は、見知らぬ乗客にしか見えません。

この状況を、悪魔──あるいは全知の神──が俯瞰したら、嘲笑を禁じえないでしょう。

さて、ここで、「タンタジールの扉」が重要です。

「タンタジールの扉」は、モーリス・メーテルリンクのマリオネット(操り人形)戯曲『タンタジールの死』に出てくる“女王”の城の扉です。“女王”は、死(死神)を象徴しており、「タンタジールの扉」は、人間が開くことのできない扉です。

メーテルリンクの有名な『青い鳥』(1911年ノーベル文学賞)では、チルチル・ミチルの兄妹が、幸福の鳥を探しに出かけますが、『タンタジールの死』に登場するのは、主人公の少年タンタジールと、その姉妹:イグレーヌ、ベランジェールです。

“女王”は、城の従者たちと下界の人間たちを、完全にコントロールし支配しています。そして、“女王”は、その力によって人々を動かし、タンタジールの家族を、次々に殺して行きます。

イグレーヌとベランジェールは、タンタジールを守ろうとしますが、タンタジールは、“女王”に差し向けられた3人の従者によって、城へ連れて行かれてしまいます。イグレーヌは、城の扉の前まで、彼らを追いかけて行きます。扉の向こうからは、タンタジールが助けを呼ぶ叫び声が聞こえてきますが、イグレーヌは、扉を開けることができず、タンタジールは、“女王”に殺されてしまいます。



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