ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.5.14


ところで、↓たった2行ですが、冷害予想に関する思考が、なぜこんなところに挿入されているのでしょうか?

. 宗谷挽歌

  (根室の海温と金華山沖の海温
   大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)

先学諸氏によれば、亡きトシとの《交信》を試みた賢治の仏教的または降霊師的“挑戦”の記録であるとされる詩篇のど真ん中に、このような農学的考察が差し挟まれていることを、私たちは無視してはならないでしょう。

ひとつ考えられるのは、旭川で賢治が北海道農事試験場《上川支場》を訪ねたとしたら、そこで、冷害研究の最新の情報に接した可能性があることです。
当時すでに冷害研究は、関豊太郎の手を離れ、この《上川支場》などが中心となって推進されていました。賢治も、冷害研究、農業気象については、観測研究に直接従事したことはないのですが、それが依然として東北、とくに北上平野の農業にとって、大きな問題であったことは、言うまでもないのです。

賢治は、改めて基礎研究の重要性、また、そうした科学的営為の意義について注意を喚起されたのではないでしょうか。

宗谷海峡の海は、賢治にとって、トシの“魂”や“魔”との遭遇の場である前に、寒流の満ちる海域であり、故郷の農業社会の死命を制する豊凶の鍵を握る“北の海”であったのです。

したがって、この2行の挿入の・もうひとつの意味は、そうした現実的・科学的思考から作者が離れてはいないことを、注意的に強調していることにあると思います。

すでに何度も触れているように、「東岩手火山」以来の宮沢賢治の課題は、《異界》を透視しつつそれに没入してしまうことなく、現実の世界をしっかりと踏まえて「まつすぐに起」つ(小岩井農場・パート9)ことでした。

いま、連絡船の甲板から海を見ながら鉛筆を走らせている作者の観察は、《心象》に向けられていますけれども、それを彼は、詩的夢想としてではなく、“科学的観察”としてやり遂げようとしているのです。

さきに読んだ部分で、霧の流れのようすを描きながら、限界顕微鏡下のブラウン運動(「微粒子」)に言及していたのもそれですし、船員の動きや、電燈の点滅するようすなど、出航を控えた船上の動きをリアルに追っているのも、そのためです。

そして、第3に、そのような作者の姿勢を踏まえるならば、亡きトシとの“交霊”として読まれている部分についても、ギトンは、よりリアリスティックな心情や決意の表明として、理解できる部分があるのではないかと思います。しかし、その点については、このあとの詩行を追って、述べていくこととしましょう。

. 宗谷挽歌

 帆綱の影はぬれたデックに落ち
 津軽海峡のときと同じどらがいま鳴り出す。
 下の船室の前の廊下を通り
 上手に銅鑼は擦られてゐる。

「デック」は、デッキ(deck)、つまり「甲板」に同じ。
帆船ではありませんが、汽船でも、マストには、さまざまな目的で帆綱(ほづな)を付けています。

出港の合図の銅鑼(どら)が鳴り出し、船は動き始めます:画像ファイル:銅鑼

銅鑼は、↑画像ファイルにあるような(通常は)薄い真鍮の円盤で、バチで叩いて鳴らしますが、‥たしかに、シャン、シャン、シャシャシャシャシャン‥というような軽い音でして、「擦られて」いるように聞こえます。

銅鑼を手に持った航海士が、賢治のいるデッキの下のデッキを、打奏しながら歩いて行きます。
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