ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.5.12


盛岡高農の初代校長玉利喜造(たまり・きぞう 1856-1931)は、駒場農学校第1期生で、1899年、日本の農学博士第1号を取得した農学者でしたが、1903年校長赴任とともに冷害研究を開始し、まず旧南部藩関係等の凶作に関する古文書を収集し、“凶作40年周期説”などを発表しました。折から、1902年と1905年は、東北地方の大凶作年でした。

玉利の論文(『凶作の研究』)は、凶作年の前後には地震などの天変地異による兆候があるなど、因果関係の明らかでない主張も多く、“易者だ”との批判を浴びましたが☆、基礎資料の収集など、のちの本格的な研究の基礎を築いたことは、争われないと思います。

☆(注) こうした“先走り”は、分野を問わず初期研究にはありがちなことなのだと思います。翻って、宮沢賢治研究に今日までも多い“大風呂敷”の数々(笑)も、実証研究が軌道に乗るまでの初期的現象として見れば、目くじらを立てるほどではないのかもしれませんねw

1905年盛岡高農教授(農学第二部長)に就任した関豊太郎(1865-1955)は、玉利の課題を引き継いで、最初の科学的な冷害研究を行ないました。関の専門は、農学の中でも物理学関係、とくに気象、地質、土壌の方面でしたから、冷害に対しても、気象学的、地球科学的アプローチに拠ったと言えます。

関は、「飢饉は海から来る」との玉利の着想に基き、1907年『凶作原因調査報告 東北ノ凶作ト沿岸海流トノ関係ニ就キテ』を発表し、岩手広田湾等における海水温観測をもとに、1905年の凶作に関して、凶冷と海水温度の密接な関係を明らかにし、“やませ”と海流の消長との関係を示しました。春夏になっても寒流が強い年には凶冷年が多いとし、沿岸海水温の観測によって凶作を予想できる可能性を、示唆しました。

これは、わが国ではじめての科学的な冷害予知方法の提唱であったとされます。

そこで、現在の気象学ではどうなのか、調べてみますと、関説の基本線は今日でも通用するようです。

まず、Wikipedia の記載を要約しますと:

 【やませ】とは、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風。特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。 やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の原因となる。

次に、吉野正敏・ほか編『気候学・気象学辞典』,1986,二宮書店,pp.532-533 から引用しますと:

 【やませ】〔…〕やませ風ともいう.オホーツク海高気圧が発達したとき北東風として吹走してくる冷湿な風で,おもに東北地方中・北部太平洋岸の住民がこの名でよんでいる.6,7月に多く現れ,年によって8月におよぶことがある.この風が吹きだすと,青森県や岩手県の海岸部では気温が数度も下がり,霧や霧雨をともなうことがある.〔…〕やませがとくに強かったり,長期にわたったりすると凶冷になる.東北地方の冷害の多くはこの種の凶冷によるもので,第一種冷害といわれる.

 〔…〕低温の顕著なやませは,850mbや700mb面での北東風が強まったときで,太平洋岸沖の海面水温分布と対応させてみると,親潮寒流がやませの低温維持に大きな役割をはたしていることがわかる.


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