ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.5.10


いま、サハリン旅行と「宗谷挽歌」に問題を限って見ますと、
はたして、賢治がどれだけシャーマニズム──ここではむしろ、亡きトシの霊と“交信”しようとする降霊術として考えられています──に接近したと言えるのか、稚泊連絡船上での彼の精神状態が、“霊媒の、精霊との交信の状況”と言えるのかどうか、ギトンは疑問に思います。

素朴に、《異界》を見る《見者》であるということと、伝統的な観念による一定の教義とそれに則った訓練を前提とする『シャーマン』(霊媒)との間には、大きな距離があると思うからです。

もし、賢治が、本気で交霊術を利用する考えであったとしたら、サハリンなどへ行くよりも前に、なぜ恐山や地元の霊媒を尋ねてトシの降霊を依頼しなかったのか、わかりません。もちろん、賢治は、そんなことはしていません。なぜなら、彼は(浄土真宗であろうと日蓮宗であろうと)聖典を奉ずる仏教徒であったからです。
降霊よりも何よりも、まず第一に拠るべきは『法華経』であり『倶舎論』であると、彼は考えていたのです。

しかし、それはともかく、秋枝氏の↑上の議論を読むと、ギトンは、細かい点は別として、全体として、深く頷きたくなるものを感じます。

「妹のいる悪所に共に落ちるべく、鬼神たちに向かって、海に落とせ、空に擲げ上げろと宣言した」
ことをも含め、「このような賢治の決意は、〔…〕未だ天台・日蓮教学の範疇での苦悩である」(『宮沢賢治という現象』,p.191)

とする鈴木健司氏とは異なり、秋枝氏は:

「『青森挽歌』の中の賢治の意識は、仏教の教えの中からすらはみ出していると思われる。〔…〕実は、仏教の教理さえ素直には受け取れない心境になっていたと言えよう。」
(秋枝:op.cit.,pp.213-214)

と述べています。

二方の見方の相違は、おそらく、「あいつはどこへ堕ちやうと/もう無上道に属してゐる」(青森挽歌)という賢治の“断言”を、どう評価するかが関わっているのだと思います。

しかし、これは、『春と修羅・第1集』全体の構想、編集・印刷過程での構想の変遷に直結する問題ですから、ギトンとしては、いまここで、かんたんにどちらかに断ずることはできないように思います。

. 宗谷挽歌

 船員たちの黒い影は
 水と小さな船燈との
 微光の中を往来して
 現に誰かは上甲板にのぼって行った。
 船は間もなく出るだらう。
 稚内の電燈は一列とまり
 その灯の影は水にうつらない。
  潮風と霧にしめった舷に
  その影は年老ったしっかりした船員だ。
  私をあやしんで立ってゐる。

船員が甲板を忙しく往来して出航の準備をしていますが、濃霧が深く立ち込めています。

「上甲板」(上部甲板)は、船体(水密構造となっている)のすぐ上にあって船首から船尾まで続く甲板で、いわば船体のフタ。
「上甲板」の下に、Aデッキ、Bデッキ、…などの中甲板があり、「上甲板」が1階の床とすれば、これらは、地下1階、2階、…の床です。作者は、いま中甲板の上にいて、外を見ていることになります。

当時は、稚内はまだ小さな町だったことが分かります。町の電燈は1列見えるだけです。

「舷」(舷側: げんそく)は、船体の左右の側面のことですが、いま作者は船の内側から見ていますから、「舷」と言っているのは、甲板の外に張り出した手すり部分を指しているのだと思います。

年取った船員が、甲板から港の中を見ながら何か手帳に書き込んでいる賢治を怪しんで、離れた場所からじっと見ています。
しかし、その船員も、また行き来して立ち働く船員たちも、闇と濃霧のために、姿ははっきりと見えず、霧を透して影のように見えているだけです。



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