ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.5.8


「   清徳聖奇特ノ事

 今は昔、せいとくひじりといふ聖(ひじり)のありけるが、母の死たりければ、ひつぎにうち入れて、たゞひとりあたごの山に持て行て、大なる石を四(よつ)の隅におきて、その上にこのひつぎをうちおきて、千手ダラ尼を、片時やすむ時もなく打(うち)ぬる事もせず、物もくはず湯水ものまで、こわだえもせず誦(ず)したてまつりて、此ひつぎをめぐる事三年に成ぬ。その年の春、夢ともなくうつゝともなく、ほのかに母の聲にて、

 『此ダラ尼をかくよるひる誦(ずし)給へば、我ははやく男子(なんし)となりて天にむまれしかども、おなじくは佛になりて告申さんとて、今までは、つげ申さざりつるぞ。今は佛になりて告申也。』

 といふときこゆるとき、

 『さ思つる事なり。今ははやう成給ぬらん』

 とて、とりいでて、そこにてやきて、骨とりあつめてうづみて、上に石のそとばなどたてて、例の様(やう)にして、京へいづる道に、西京(にしのきやう)になぎいとおほくおひたる所あり。〔…〕」

(『宇治拾遺物語』巻第二、一)☆

☆(注) 中島悦次・校注『宇治拾遺物語』,角川ソフィア文庫,pp.46-47.

【大意】〔清徳聖(せいとく・ひじり)が奇蹟に遇った話

 これも今では昔の話だが、「せいとく・ひじり」という僧がいた。母が死んだので、遺骸を柩(棺おけ)に入れて、たったひとりで愛宕山(京都市北西部にある)へ運んで行き、四隅に大きな石を置いた上に、この柩を載せた。そして、柩の周りを回りながら、千手陀羅尼(せんじゅ・だらに。千手観音のサンスクリット語呪文)を、いっときも休まず、寝ることもせず、湯水も飲まず、声が途切れることもなく、朗誦し申し上げた。こうして回り歩きながら朗誦し続けて三年になった。三年目の年の春に、夢ともなく現つともなく、かすかに母の声が聞こえた:

「この陀羅尼を、昼夜唱えてくださったので、私は、すでに以前に、天界に男子として生まれたのだが、同じことなら仏(ブッダ)になってから告げてさしあげようと思って、今までは、お告げしなかったのだよ。今は仏になって、お告げするのである。」

 そう言うのが聞こえた。その時、清徳ひじりは、

「母は順調に成仏に向かっていると、私も思っていたが、今はすでに、仏におなりのようだ。」

 と考え、柩から母の死体を取り出して、その場で焼いて、骨を集めて埋め、その上に石の卒塔婆などを立てて、しきたりどおりの墓地にして、愛宕山を下り、京都へ戻った。戻る道の途中、西ノ京(右京区)に、ナギ★のたくさん生えている場所があった。‥〕

★(注) この「なぎ」は、どの注釈書を見ても、『和名抄』の記載から、ミズアオイ(水田などに生えるホテイアオイに似た水草)としています。しかし、文章の後のほうを見ると、「主(ぬし)の男」(所有者)がいますし、「三十筋ばかりむず\/と折くふ。此なぎは三町計(ばかり)ぞうゑたりけるに‥」とあって、細長い野菜が一列に植えてある様子です。したがって、これは、ネギではないかと思うのですが‥

さて、↑上の『宇治拾遺』の説話を見ますと、たしかに、死んだ肉親から、転生の行く末を報せる《通信》が来るという信仰は、古い時代からあったようです。

そこでは、成仏の“経路”も、まず《天界》に天人(性転換して男性となる)として転生し、しかるのち、最終的には《仏》となって輪廻から解脱するということで、『倶舎論』などに記された輪廻世界の秩序に則っています。

しかし、この説話では、飲まず食わずで三年間祈祷を続けた末に、死者が《仏》となった後ではじめて、「かすかな声が聞こえた」と言うのです。

死者からの《通信》を受けるということは、昔の人にとっても、非常に稀な奇蹟であり、超人的な努力を続けて“功徳”を積んだ場合に、はじめて得られるものであったと言えます。

このような伝統的観念を前提にして言えば、
宮澤賢治のように、妹が天界に生まれたか地獄に堕ちたかさえ確信が持てない状態で、ふつうの職業生活を送りながら(お題目や法華経の読経など時々したとしても)、わずか8ヶ月で《通信》を受けようなどとは、まったく笑える話じゃないかと思ってしまいますw◇

◇(注) 鈴木健司氏が指摘されるように、賢治の念頭には、日蓮の『上野尼御前御返事』などに記された法華経受持による奇蹟の数々が──日蓮宗で深く信じられているそれらの言い伝えがあったのだと思います:『宮沢賢治 幻想空間の構造』,pp.70-73. ギトンの上の本文は、半分冗談ですが、‥どれだけ知識を入れても、また、信者である賢治の心理にどれだけ近づいても、やはり信仰を持つことだけはできないという告白でもあります。
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