ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.5.6


「賢治が『青森挽歌』において、『(宗谷海峡を越える晩は/──略──/そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)』と、予定的に記した『挑戦』とは何か。それが『宗谷挽歌』末尾の次の二行と強く響き合っていることは明らかである。

  さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
  私は試みを受けやう。

 賢治は、海や空に棲む鬼神たちに向かって、『試み』(『挑戦』)を受けよう、と宣言しているのである。海や空の鬼神は賢治に何を『試み』ようとしているのか。結論からいえば、賢治を海に落とすこと、空に擲げ出すことである。それはすでに、冒頭五行目に『私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか』と記されており、
 〔…〕もし妹とし子が今でも悪所(地獄界または餓鬼界)にとどまっており、そこからの通信が鬼神たち(「タンタジールの扉」)によって遮られているとしたならと考えた結果、賢治は妹のいる悪所に共に落ちるべく、鬼神たちに向かって、海に落とせ、空に擲げろと宣言したのである。」
(op.cit.,pp.190-191.)

鈴木氏の↑上の「宗谷挽歌」からの引用は、いちばん最後の2行です⇒:宗谷挽歌

この2行は、その前に原稿の欠落があるために、意味の分からない結末になってしまっています。逆に言えば、前の部分が不明である以上、鈴木氏のように意味を推理することも許されるわけです。

『タンタジールの扉』は、メーテルリンク作の戯曲の題名ですが、「宗谷挽歌」の半ばで言及されます。これは、のちほど説明します。

「青森挽歌」での“予告”と、「宗谷挽歌」を繋げた鈴木氏の推定は、なかなか説得力がありますが、ギトンがちょっと気になるのは、鈴木氏が、「宗谷挽歌」の段階の賢治について、“無上道による即身成仏”という“天台教学”“法華経”の信念(⇒7.1.81)に移っていたと考えていることです☆。しかし、ギトンは、7.5.4 に述べたように、賢治がこの“信念”を獲得したのは、すでに『春と修羅』の印刷にかかっていた1924年3月ころ、具体的には、キリスト者斎藤宗次郎との懇談を通じてであったと考えているのです。

☆(注) あるいは、賢治は「宗谷挽歌」の【清書後手入れ稿】制作を通じて、“天台教学”の信念を(ギトンの想定より早い時期に)わがものとし、そこから振り返って、「青森挽歌」を修正し、「あいつは‥もう無上道に属してゐる」というパッセージを入れた、という推定かもしれません。そうであれば、鈴木氏の議論は、各草稿の状態とも矛盾しません。

なぜそのように考えるかといえば、‥ごくかんたんに言うと、ギトンは、宮沢賢治という人を、世間が見なしているよりもずっと弱い人間、誤解を恐れずに言えば“甘いお坊ちゃん”だと考えているのです‥

しかし、作者の人間像そのものを語るのは、作品論をもっと積み上げてからでも遅くはないでしょう。いまは、これ以上深入りしたくないと思います。

ともかく、【清書後手入れ稿】の段階で“醗酵”を止めた「宗谷挽歌」においては、
トシが“どんな世界に堕ちようと無上道に属している”という確信を、作者は、まだ持っていない。作者は、たぶんにメルヘン的に、『倶舎論』をもとにイメージをふくらませて、トシの行く末を考えている。したがって、トシのいる場所が《天界》であるとも、下方世界であるとも、‥あるいはまだ《この世界》にひそんでいるとも、まったく決めかねている──ということだと思います。
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