ゆらぐ蜉蝣文字
□第7章 オホーツク挽歌
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7.1.11
. 春と修羅・初版本
46(おヽ(オー)おまへ(ヅウ) せわしい(アイリーガー)みちづれよ(ゲゼルレ)
47 どうかここから(アイレドツホニヒト)急いで(フオン)去らないでくれ(デヤ ステルレ)
48《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》
49 いきなりそんな惡い叫びを
50 投げつけるのはいつたいたれだ
51 けれども尋常一年生だ
52 夜中を過ぎたいまごろに
53 こんなにぱつちり眼をあくのは
54 ドイツの尋常一年生だ)
46-47行目のルビはドイツ語です。まず、原文を示しますと:
O du eiliger Geselle,
Eile doch nicht von der Stelle!
これは、"Des Wassers Rundreise"(水の周遊, 水の旅)という作者不詳のドイツ詩☆の一節なのですが、
当時、旧制高校などのドイツ語教科書として使われていた『独文読本』(大村仁太郎他編,独逸学協会出版部,1897年刊)には、この詩が載せられていたそうです。賢治は、この教科書でドイツ語を習った可能性が高いのです。
☆(注) いま、ネットで検索をかけると、"Bildersaal deutscher Dichtung" という1829年, スイス, ヴィンタトゥーア発行のドイツ詩の教科書がヒットします。こちらでは、題名が "Wiederfinden"[再発見,復縁] になっており、本文も、"eiliger Geselle" [せわしい若者よ] が "lieblicher Geselle" [愛らしい若者よ] になっています。やはり作者名は書いてありません。相当に古くから教科書に載っていたこと、また、再会の約束に力点がおかれた明るい調子の詩だということが分かります。
《水の周遊》全体の原文と訳は、次のとおりです。翻訳は、できるだけ逐語訳になるように心がけました:
【ギトン訳】 水の周遊
花たちが波に言った
「おお、きみ、せわしい若者よ、
せわしくその場を去ってゆくなよ!」
しかし、波はそれに答えて言う
「私は下の国々へ行かねばならない
この大河に保証されてどこまでも
さいごは海で水浴びして若返るため;
だがそのあと青空から降りて来よう
ふたたび雨となって君たちの上に」
★(注) 『国会図書館デジタルコレクション』で、1907年版と1909年版をネットから閲覧することができます。↑右側に貼り付けたのは、1909年版の該当部分(これは、ドイツ文字というものです。昔は、こういう教科書で習わされたんですねw)。全体を見たい方は、こちら⇒大村仁太郎, 山口小太郎, 谷口秀太郎・共編『獨文讀本 第1』,獨逸語學雜誌社,1909(国立国会図書館デジタルコレクション)
なお、ありがたいことに、この詩にはウムラウトが1つもないので、ローマ字フォントを気にしないですみます。ただ、左側5行目の"muss"は、正確に表記すると"muβ"です。
河の水は海に注ぎ、蒸発して雲となり、降水となって、また地上に戻って来る。つまり、“水の循環”を歌にしたもので、スイスの民謡ではないでしょうか。
おもしろいのは「花たち」との関係で、根があって動けない花は、忙しそうに行ってしまわなくてもいいじゃないか、と言いますが、水(波)は、諸国を旅して見聞を広め、最後は若返り、きれいなツユになって、きみたちのところへ戻って来ると答えます。
海に注いだ後は、またツユになって生まれてくるという「波」の返事は、仏教の《輪廻転生》を思わせないでしょうか?‥
ところで、この歌との関係が気になるのが、保阪家・家庭歌《勿忘草》の3番です。
《勿忘草》は、保阪嘉内の作詞作曲と思われ、後に結婚した保阪が、奥さんや子供たちと歌っていたものです。1番は、『春と修羅』第1章の「習作」に使われている・例の「とらよとすれば その手から‥」ですが、いま、問題になるのは3番です。
3番は、保阪の作詞ではなく、ヴィルヘルム・アーレントという人の詩で、保阪は、上田敏の訳詞集『海潮音』に載っている翻訳をそのまま使っています。
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