ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
115ページ/250ページ


  
南稚内駅付近   


    【67】 宗谷挽歌




7.5.1


「宗谷挽歌」は、原稿に、1923年8月2日の日付が記されています。

賢治は、21時14分稚内駅に到着し、稚泊鉄道連絡船に乗船(午後11時30分出港)、夜行の船でサハリンに向かいました。
当時の稚内駅は、現在の南稚内駅でして、連絡船に乗り換える乗客は、稚内港の桟橋まで、1.6キロを歩き、さらに艀(はしけ)に乗って、港内に停泊する船まで行かなければならなかったのです。

稚泊航路は、1922年の宗谷本線全通に続いて、この年(1923年)5月1日に開設されたばかりでした。それ以前には、サハリンへ行くには、小樽からの航路だったのです。

. 宗谷挽歌
↑↑テキスト・ファイルには、有名な鉄道連絡埠頭のアーチ通路の写真を出しておきましたが、鉄道から直接岸壁に通じるこの通路ができたのは1926年のことでして、当時には、まだありませんでした。

このスケッチは、稚内港内の船のデッキで出港までの間に書き留めたものと思われます。

文中にも出てきますが、連絡船が出港する時には、まずシャンシャンと銅鑼(どら)が鳴ります。⇒:画像ファイル:銅鑼

それから、低い汽笛を何度も鳴らしながら、船はゆっくりと向きを変え、ようやく港外へ向かって動き始めます。汽笛は、港内の他の船とぶつからないように動きを知らせる注意信号です。港の防波堤のところを過ぎるまでに1時間近くかかるのがふつうだと思います。

ですから、賢治が詩作のスケッチをする時間は十分にありますし、‥‥いよいよ、住み慣れた日本の国土を離れるのだという感慨が‥さまざまな思いが胸をよぎります。サハリンの港に着くのは翌朝です‥
このように‥飛行機でビュンと行ってしまう現在の海外旅行とはずいぶん違う──という点を頭に入れておいていただきたいと思います。

もう夜も遅いですから、乗船した旅客はみな船室へ行って就寝のしたくをしているはずです。まだ外に出てデッキの手すりにもたれて手帳に何やら書き込んでいる賢治の姿は非常に目立ったと思うのです。

「宗谷挽歌」には、「年老ったしっかりした船員」が、遠くから賢治をじっと見ていて、しまいには話しかけてきたことが書かれています。
賢治は、デッキから海に身投げする自殺者と間違えられたと思っているようですが、ギトンは、むしろそうではなくて、港内をキョロキョロ見回しながら手帳に何やら書き込んでいる賢治の姿は、外国のスパイかなにかと疑われたのではないかと思います。

当時は、ロシア革命の直後で、日本とソ連の間は緊張しており、《シベリア出兵》もまだ終結してはいませんでした。サハリン島の北部(ロシア領)には、日本軍が進駐していました。
連絡船の乗組員も、外国のスパイや難民などが乗り合わせないか、警戒していたと思うのです。
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ