ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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旭川駅前の街路図(1922年『市勢要覧』より)

7.4.3


もっとも、賢治の試験場訪問は、列車の待ち時間による“ついで”だったかもしれません。事前に手紙のやりとりなどしていれば、所在地を知らないはずはないからです(でしょ?w)。。。
なので、もし“ついで”の訪問だとすれば、気まぐれな賢治のこと‥移転を知って、旭川中学校の見学、先生方との懇談に変更した可能性は、あると思います。

いずれにせよ、場所を間違えたために訪問は失敗‥などということは、ありえないとギトンは思います//

ちなみに、行き先が永山になって、賢治の出費はどのくらい増えたでしょうか?‥ちょっと気になるところですが、

大正11年(1922年)『市勢要覧』によれば⇒:市勢要覧
貸切自動車の運賃は、

市 内  片道80銭、往復1円20銭
永山まで 片道2円

でした。賃走馬車が、当時まだ珍しい贅沢だった自動車(タクシー)より、高いことはありえないでしょう。

したがって、賃走馬車でそのまま行ったとしても+80銭以下。駅に戻って電車で行けば、(賢治は宗谷本線のキップを持っているのですから)追加出費はゼロです。

. 旭川

 植民地風のこんな小馬車に
 朝はやくひとり乗ることのたのしさ
 「農事試験場まで行って下さい。」
 「六条の十三丁目だ。」

作者は、乗った馬車を、なぜ「植民地風」と呼んでいるのでしょうか?
まず、馬車について書いた部分を抜き出してみますと、↓つぎのようです:

「馬の鈴は鳴り馭者は口を鳴らす。
 黒布はゆれるしまるで十月の風だ。」

「こんな小さな敏渉な馬を
 朝早くから私は町をかけさす」

「馬車の屋根は黄と赤の縞で
 もうほんたうにジプシイらしく
 こんな小馬車を
 誰がほしくないと云はうか。」

馬車は「黄と赤の縞」の屋根(幌?)が付いていて、「ジプシイ」風で、鈴をつけた小型の馬が牽いています。「黒布」は、馬に掛けてあるのでしょうか?

しかし、どうも‥馬車のようすには、「植民地風」という感じはありません。



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