ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.4.2


ところが、多くの読者・研究者が、少なくともこの時には、賢治は試験場に達していないと考えています☆。というのは、この作品の賃走馬車に乗る場面に、「六条の十三丁目だ。」と書いてあるからです。
6条13丁目は旭川駅から約1`b、歩いても行ける距離です。しかし、永山村は、さらに8`bほど先なのです‥

☆(注) たとえば、藤原浩,op.cit.,pp.24-25. もっとも、ギトンもまだ現地を踏んでいないのですから、旭川駅から永山まで自分で行ってみるまで、確言はできないわけですw

この:

「六条の十三丁目だ。」

が、賢治の発言なのか、賃走馬車の馭者の発言なのかは、分かりませんが、「農事試験場まで行って下さい。」と並べて、違う口調で書いてあるところから見ると、馭者の発言のように思われます。

つまり、「農事試験場」と言われて、それは、旭川の市街地内の「六条の十三丁目」にあると答えて、そちらへ向かったのは、馭者なのです。賢治は、農事試験場がどこにあるのか知らなかったと思われます。

いま、Wikipedia で調べてみますと、《上川農事試験場》の所在地は:

 1886-1889年 上川郡忠別太

 1889-1897年 旭川村1条

 1897-1904年 旭川村6条

 1904-1994年 上川郡永山村

のように移転していて、たしかに1897-1904年の7年間は旭川村6条★にあったのですが、賢治が訪れた1923年には、すでに19年も前に永山村に移転していたのでした。

★(注) 正確には、六条十一丁目にあったそうです。跡地は、1923年当時は、旭川中学校(現・旭川東高校)になっていました。⇒daydream

19年前の移転を知らないとは、ずいぶんボケた馭者ですが、農事試験場へ賃走で行く客は少ないでしょうから、そんなこともあるのかもしれません。

そして、じっさいに詩に書かれている風景は、駅から六条通11〜13丁目までの経路のようなのです。。。

しかし、もし誤って六条通13丁目へ行ったとしても、跡地にあった旭川中学校で聞けば、移転先はすぐに分かったでしょうし(宿直の先生が居るはず)、ここは、駅から永山へ行く途中の場所でして、回り道にもなっていないのですw

↓マピオン地図で測った距離を出しておきますと:

旭川駅───永山1条20丁目(永山駅)

 直線で8.3`b
 広い道路を通って9.6`b

旭川駅───6条通11丁目
 直線で1.1`b

旭川駅───6条通13丁目
 直線で1.2`b
 街路を通って1.8`b

6条通13丁目───永山1条20丁目
 直線で7.1`b
 広い道路を通って7.8`b

◇(注) 宗谷本線永山駅は、当時からありましたから、馬車で駅に戻って7時45分発の音威子府行きに乗り永山へ行くこともできます⇒daydream。いずれにせよ、試験場訪問の後は、永山駅から、予定の稚内行き普通列車に乗車できたはずです。

もちろん、賢治の乗った馬車が、正確にどの道を走ったかは分かりませんが、この一帯の道路は、すべて碁盤の目状ですから、どの道を通っても距離はほとんど変りません。

なお、《上川農事試験場》は、戦前においては冷害研究の中心だったようでして◆、宮澤賢治が関心を持つのも、むべなりと思われます。

◆(注) こんな大切なことを、どうして誰も言わないのか、ふしぎふしぎww
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