ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.9


作者の《心象》を彩っていた‘よどんだ黄色’は、とつぜん、‘空虚な水いろ’に反転しました。
さきほど、11-12行目では、誰もいないプラットホームは、「いちれつの柱は/なつかしい陰影だけでできてゐる」と、切ないほどの愁いを感じさせる光景でしたが、いまは、そのような感傷さえ受け付けない・がらんとした恐ろしい空虚が支配しているのです。

考えてみれば、存在するかどうかも分からない亡き妹の魂を追いかけて、行ったことのない外地のサハリンまで、作者は行こうとしているのですから、
自分がめざしている場所は、ほんとうは何もない空間で、いっさいの希望が絶たれる境域に向かって、突進しているのではないか、という不安を感じるのも無理はないのです。

ここで「水いろ」は、そうした‘存在論的な恐怖’を象徴する色なのだと思います

. 春と修羅・初版本

30汽車の逆行は希求の同時な相反性
31こんなさびしい幻想から
32わたくしははやく浮びあがらなければならない

作者の中に、自分の“幻覚”を分析して、「さびしい心意の明滅」「こんなさびしい幻想」と評する、もうひとりの「わたくし」がいます。そして、「わたくしははやく浮びあがらなければならない」と、自分の“幻想”を批判します。

さきほども、

21わたくしの汽車は北へ走つてゐるはづなのに
22ここではみなみへかけてゐる

と言っていましたが、「希求の同時な相反性」とは、心理的なアンビヴァレンツ(二律相反)を言っているのでしょう。目標に向かって進む気持ちが大きければ、それを妨げようとする心もそれだけ大きくなります。故郷を離れようとすれば、戻りたくなる。愛が大きいほど不満も増える。。。 しかし、賢治の場合には、そうした二義的な心が、しばしば人格が引き裂かれるほど鋭く、彼の中で対立したのだと思います。

. 春と修羅・初版本

33そこらは青い孔雀のはねでいつぱい
34眞鍮の睡さうな脂肪酸にみち
35車室の五つの電燈は
36いよいよつめたく液化され

「孔雀のはね」は、賢治の幻想が広がってゆくときに、しばしば現れる形象だと思います。たとえば、「序詩」には:

45おそらくこれから二千年もたつたころは
46それ相當のちがつた地質學が流用され
47相當した證據もまた次次過去から現出し
48みんなは二千年ぐらゐ前には
49青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ

と書いていました。


 

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