ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.1.8


この展開の鍵は、39行目の妹の言葉(松の枝から雪を採取している時に想起される)だと思います。
死を覚悟し、恐れることなく進んで行こうとしている妹の「けなげな」言葉が、作者の胸のうちから、「もう今日おまへはわかれてしまふ」という・あきらめきれない感傷を払拭させ、雪の白さ、そして、その雪がやってきた空の・目には見えない“明るさ”に、作者の気持を向けさせるのだと思います。

こうして、この詩のテーマは十分に展開しつくされたので、↓最後に、C終結部が置かれます。

. 春と修羅・初版本

49 (うまれでくるたて
50  こんどはこたにわりやのごとばかりで
51  くるしまなあよにうまれてくる)※

  ※またひとにうまれてくるときは
   こんなにじぶんのことばかりで
   くるしまないやうにうまれてきます

52おまへがたべるこのふたわんのゆきに
53わたくしはいまこころからいのる
54どうかこれが天上のアイスクリームになつて
55おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
56わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

↑この終結部の“祈り”については、のちほど詳しく扱いたいと思います。








 2 高村評の検討

さて、まずは、古いところで、高村光太郎の評を見ておきたいと思います。なんと言っても、これは避けて通れない古典的な評価ですから:

「こんなにまことの籠つた、うつくしい詩が又とあるだろうか。この詩を書きうつしてゐるうちに私は自然と浄らかな涙に洗はれる気がした。〔…〕

 内面から湧き出してくる言葉以外に何の附加物もない。不足もないし、過剰もない。どんな巧妙な表現も此所では極めてあたりまへでしかない。少しも巧妙な顔をしてゐない。此の事は詩の極致に属する。〔…〕詩の世界に於ては慟哭さへも斯の如く清浄の気に満たされるのである。陰惨が書いてあつてしかも其を貫き破る光である。〔…〕死に瀕する妹さんが兄の採つてきた松の枝に触れて喜ぶくだりの崇高の美は、『ああいぃ さっぱりした まるで林のながさ来たよだ』といふ妹さんの素朴な言葉に到つて殆ど天上のものに類する。

 宮澤賢治といふ詩人は〔…〕朝から晩までの繁忙の生活の間に彼はいつでも手帳を懐にし、〔…〕青空の下、物置の隅のきらひなく、心象の湧き起るままに其を言葉にした。言葉にしては歌った。其処にまつたく新しい詩の一種族が期せずして生れた。〔…〕」


☆(注) 高村光太郎「宮澤賢治の詩」,in:天沢退二郎・編『「春と修羅」研究T』,1975,学芸書林,pp.12-14; 初出:『婦人の友』32-3,1938.3.
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